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E.H.カー『歴史とは何か』

2月7日(木)薄曇り、次第に晴れ間が広がる。

 1月31日、E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』(岩波新書)を読み終える。著者(Edward Hallett Carr, 1892 - 1982)が1961年にケンブリッジ大学で行った「歴史とは何か」(”What Is History")と題する連続講演の内容を本にまとめたもので、清水幾太郎(1907‐88)による日本語訳は1962年に刊行され、今日まで版を重ねて私の手許にあるのは第88刷である。「はしがき」で清水が言うように、歴史に関わる根本問題を一つ一つ綿密に論証した歴史的な著作であり、歴史研究に興味を持つ人々が避けて通ることのできないような問題が取り上げられている。

 とはいうもののこの書物がまとめられてから50年以上(四捨五入すれば60年に近い)年月が経って、その間にも新しい歴史が積み重ねられているし、この書物が日本に紹介されていなかった頃にはまだ翻訳されていなかった海外の書物が日本語で読めるようになり、歴史についてのわれわれの見方や立ち位置も大きく変化していることは否定できない。さらに、この翻訳が出たころにはまだまだ論壇における一方の雄としての清水の地位は高かったとはいうものの、社会学者である彼の歴史書の翻訳が、歴史家である著者の真意をどこまで捕えているかをめぐっても疑問がある。「はしがき」で清水は謙虚にも、「E.H.カーの恐るべき博識に私が追いつけぬため、とんでもない誤訳がありはしないかと心配している」(ⅴページ)と書いている(清水は旧制中学でドイツ語を勉強したため、英語よりもドイツ語の方が得意だったという事情も考えなければならないだろう)。だから、清水が没して30年以上を経過した今、彼の翻訳を生かしながらも、さらに新しい知見を加えて改訳がなされるのが適切だと思う。これから展開する論評は、そのことを常に意識しながら、展開していきたい。

 歴史に関わる根本問題と書いたが、この書物は次のような構成をとっている:
Ⅰ 歴史家と事実
Ⅱ 社会と個人
Ⅲ 歴史と科学と道徳
Ⅳ 歴史における因果関係
Ⅴ 進歩としての歴史
Ⅵ 広がる地平線

 章題を見ればわかるように、歴史研究における「事実」とはどういうものか、歴史における社会と個人の関係、歴史研究は科学であるか、歴史に道徳的判断を持ち込むべきかというような問題が取り上げられているが、それ以前に気になるのは、この書物の標題紙と「はしがき」の間に、次のような言明(あるいは引用)が挿入されていることである。
 「八分通りは作りごとなのでございましょうに、それがどうしてこうも退屈なのか、私は不思議に思うことがよくございます。」
   キャサリン・モーランド歴史を語る
    (ノーサンガー・アベイ 第14章)
『ノーサンガー・アビー』(Northanger Abbey)は1803年に完成したが、さまざまな事情で出版されないまま、結局作者の死後に公にされたジェイン・オースティン(Jane Austen 1775 - 1817)の最初の長編小説である。キャサリン・モーランドは比較的裕福な地方牧師の娘で、田舎育ちのごく平凡な17歳の少女であるが、性格がよい半面で小説を読みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなるところがある。その彼女が教養豊かな若い地方牧師であるヘンリー・ティルニーと出会い、恋に落ちる。
 引用箇所は、物語の中盤、キャサリンがそのヘンリー、ヘンリーの妹で美人で教養もあるエリナーと3人で散歩をしながら、どんな本が好きかという話題で盛り上がる場面である。キャサリンはゴシック小説の傑作とされるアン・ラドクリフ (Ann Radcliffe 1764-1823)の『ユードルフォの謎』(The Mysteries of Udolpho, 1794)を愛読しているといい、ヘンリーもエリナーもこの本を高く評価していることを知り、安心する。〔まったくの余談になるが、この『ユードルフォの謎』という小説も日本語に翻訳されているようである。〕

 そして、エリナーの質問に答えて、自分は小説や戯曲は読むし、旅行記も嫌いではないが、歴史書はどうも好きになれないという。彼女の言い分がなかなか面白い:「義務的に少しは読みますけど、いやなことや退屈なことしか書いてないんですもの。どのページを開いても、教皇や国王たちの争いや、戦争や疫病のことばかりで、男はみんなろくでなしで、女はほとんど出てこなくて、ほんとにうんざりするわ。でも、よく不思議に思うの。歴史書の大部分は作り話なのに、なぜこんなに退屈なんだろうって。英雄の言葉も考えも計画も、ほとんどが作り話だと思うわ。それなのになぜあんなに退屈なのかしら。ほかの本に書かれた作り話はすごく面白いのに」(中野康司訳、ちくま文庫版、163‐164ページ、下線は、この個所がカーの引用と重なることを示すために私が引いたものである。)

 これに対して、エリナーは優等生の淑女らしく次のように答える:「つまりあなたの考えだと…歴史家は想像力の使い方が下手だというわけね。歴史家は想像力を発揮しても、読者の興味をかきたてることができないというわけね。でも私は歴史が大好きよ。そこに書かれた真実も作り話も両方とも大好きよ。主要な事実は、語り継がれてきた歴史と記録が元になっていて、それを自分の目で見たわけではないけど、十分に信頼できると私は思っているの。それからあなたの言う粉飾について言えば、それは確かに粉飾だけど、私はそういう粉飾も大好きなの。英雄の言葉が面白く書かれていたら、それを書いたのが誰であろうと、私はそれを読んで大いに楽しむわ。カラクタクス
(AD50ごろ、ローマ軍に抵抗したブリテンの族長)やアグリコラ(40‐93。ブリテンを平定したローマの将軍)やアルフレッド大王(849‐899 デーン人侵略から国を守ったウェセックス王)の本当の言葉よりも、デイヴィッド・ヒューム(1711‐1776 『人性論』で知られる哲学者だが、『英国史』全6巻も有名)やウィリアム・ロバートソン(1721‐1793 スコットランドの歴史家)が粉飾した言葉の方が気に入るかもしれないわ」(中野康司訳、ちくま文庫、163‐164ページ) なお、アグリコラはローマ白銀時代の大歴史家タキトゥス(56頃‐120頃)の義理の父親で、タキトゥスは『アグリコラの生涯』という伝記を書いている。オースティンがそこまで知っていてこの個所を書いていたかどうかはわからない。

 歴史は大部分が作り話であるのにつまらないと主張するキャサリンに対し、歴史の核になっているのは事実であるし、それを再現していく歴史家の筆の運びにも魅力があるとエリナーは反論する。この議論は、毎日起きている様々な事件がどのように歴史として語られるものの部分になっていくかという「Ⅰ 歴史家と事実」と直接に重なっているし、それだけでなく、歴史とは何かという議論と密接に関連するものとして、歴史は面白いのかつまらないのかというもっと大きな問題を提起しているようでもある。
 ということで、前宣伝で終わってしまった感じがあるが、次回は「Ⅰ 歴史家と事実」についてみていくことにしよう。
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歴史家と事実、日本では

>ということで、前宣伝で終わってしまった感じがあるが、次回は「Ⅰ 歴史家と事実」についてみていくことにしよう。

〇日本の歴史に「邪馬台国論争」がありますが、歴史家と事実という観点から観るとどうなのか、興味深いところです。
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