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高田の冬は霏々として

12月29日(土)昼過ぎ頃までは、三ツ沢グランドの陸橋付近から、雲に半分ぐらい隠れながらも富士山が見えるという程度に晴れていたのが、時が経つにつれて曇り空が広がってきた。

 「日記抄」で触れるつもりで、書きそびれてしまったのだが、12月23日の『朝日』朝刊に掲載された「しつもん! ドラえもん 3177 にいがた編」に「日本のスキーは新潟が発祥。スキーを伝えた外国の人はだれかな?」という問題が掲載されていた。
 日本に本格的なスキー技術を伝えたのは、アルペン・スキーの創始者であるマティアス・ツダルスキーの門下で、オーストリア≂ハンガリー帝国の陸軍将校だったテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869‐1945)である。彼はオーストリア陸軍でスキーを採用することに尽力した人物であったが、日露戦争に勝利した日本の陸軍の事情を知りたいと考えるようになった。また、明治35年(1902)に八甲田雪中行軍遭難事件を起こした日本陸軍の側でもスキーに着目しはじめたという事情があり、交換将校として明治43(1910)年に来日、新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)に置かれていた第13師団歩兵第58連隊(第13師団長:長岡外史、歩兵第58連隊長:堀内文次郎)で、スキーを指導することになった。翌明治44(1911)年1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し、鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員を指導したのが、日本におけるスキーの発祥とされ、1月12日は「スキーの日」となっているそうである。なお、レルヒは来日時には少佐であったが、来日中に中佐に昇進したため、高田ではレルヒ少佐という呼び方が一般的であるが、その後、彼が指導にまわったところではレルヒ中佐と呼ぶところもあるそうである(帰国後、最終的には少将にまで昇進した)。また、彼はドイツ語圏では名門中の名門校と言えるウィーナー・ノイシュタットのテレジアーヌムの卒業生であるが、この学校についてはいずれ書くことがあるだろうと思う。

 ところで、レルヒが伝えたスキーはストックというか杖1本で滑るもので、『朝日』紙面に描かれていた漫画のドラえもんが2本のストックで滑っていたのは、この点から見るとおかしい。さらに言えば、「新潟」には大ざっぱに言って、①新潟県、②新潟市、③新潟市の中心部(旧新潟町)という3つの意味があり、「にいがた編」というよりも、「にいがた県編」というべきではないかと思う。

 さて、レルヒは歩兵第58連隊の営庭(昔の高田城の城内であろう)のほか、町のはずれの金谷山でもスキーの訓練を行った。旧制高田中学⇒新制高田高校の関係者の間で歌い継がれ、また市民の間にも広がった「高田の四季」という歌の4番に「金谷山頭 スキーに暮れて」と歌われているように、スキーは連隊の将兵だけでなく、市民の間にも広がり、親しまれるようになった。

 ところで、この「高田の四季」の4番の歌い出しは、この記事の見出しとして掲げたように「高田の冬は霏々(ひひ)として」というものである。ある時、宴席で何か新潟関係の歌を歌った方がいいということになって、然るべき人物に頼んだのだが、彼が「高田の四季」を歌うといって、一生懸命に歌詞を書いている。それで「ひひとして」の「ひ」というのはどういう字かというので、時間がたってしまったのを覚えている。「雨かんむり」に「非」と覚えてしまえば簡単なのだが、なかなか覚える気になれないところがある。なお、高田高校の校友会のホーム・ページを見ると「ひひとして」とひらがなで記されている。漢和辞典を見ると、「霏霏」は「雨や雪がはなはだしく降るさま」を言うそうである。それで思い出したのだが、高田で暮らしていたころに、雪の日に傘をさして歩いていて、傘が急に重くなったのでびっくりして雪を払い落としたことを思い出す。傘でなく、フード付きのコートを着て歩く方が賢明である。 

 さて、レルヒ来日中の第13師団長であった長岡外史(1858‐1933)は、それ以前の日清戦争中に大島混成旅団の参謀をしていたが、部下であった二宮忠八(1866‐1936)による偵察用飛行機の研究開発に予算を出してほしいという申し出を一蹴したことがあった。その後、彼は飛行機の軍事的な重要性を認識するようになり、退役後のことではあるが、二宮を直接訪問して謝罪したという。また日本における航空分野の初期の発展に尽力した。自分に非がある場合にはそれを認めて反省し、また必要な時には謝罪、態度を改めるというのは立派なことではないかと思う。
 その一方、彼はプロペラ髭と呼ばれる長大な髭を蓄えていたことでも知られる。法政大学の航空研究会の顧問をしていた内田百閒はこのことから、晩年の長岡と接触することがあったが、長岡が写真撮影に応じるときには、髭を撮影用にしっかり整えてから望んでいたと記しているそうである。そのあたりに内田独特の観察眼が働いているようである。そのような写真をもとに、製作されたのであろうか、上越市の高田公園内には、髭をぴんと伸ばした彼の銅像が立っている。
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No title

高田話、ありがとうございます。

レルヒ少佐の字を頂いた(清水礼留飛選手)、来年はいい成績を出して欲しいものですね。
レルヒ少佐は、帰国してのち病気・怪我などで入院のお金にも困る状態で居ることを知った(教え子)たちは募金を募って送金したそうな。

恩にきたレルヒ氏は、(天才なのでしょうね)自分の描いた絵などを礼に送ってきたので、
コレなどをまた金子に替えてお金を送ったとかで。

レルヒ氏と高田の市民との心温まる交流が続いた話が記念館に保存されていました。

(なにをくよくよかわばたやなぎ みずながれをみてくらす)と、ローマ字で書いて有りました。

Re: No title

コメントをありがとうございました。

高田に住んでいたのは短い期間でしたが、まだ若いころのことだったので、雪にも負けず、楽しい日々を送ることができたと思っています。
>
> レルヒ少佐の字を頂いた(清水礼留飛選手)、来年はいい成績を出して欲しいものですね。
> レルヒ少佐は、帰国してのち病気・怪我などで入院のお金にも困る状態で居ることを知った(教え子)たちは募金を募って送金したそうな。
>
> 恩にきたレルヒ氏は、(天才なのでしょうね)自分の描いた絵などを礼に送ってきたので、
> コレなどをまた金子に替えてお金を送ったとかで。
>
> レルヒ氏と高田の市民との心温まる交流が続いた話が記念館に保存されていました。
>
> (なにをくよくよかわばたやなぎ みずながれをみてくらす)と、ローマ字で書いて有りました。

 レルヒ帰国後の高田の人たちとの交流についてご教示ありがとうございます。オーストリアは第一次世界大戦で敗戦しただけでなく、多くの領土を失ったので、退役後のレルヒは恩給ももらえず、かなり困窮していたようです。

 高田には、機会があればまた出かけたいと思っているのですが、さて、どうなりますか…。
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