語学放浪記(6)

7月9日(火)晴れ

 前回、前期の成績がかろうじて合格点だったのに、後期の試験の前におバカな先輩の余計なお世話のおかげで単位を落としてしまったドイツ語の授業というのは芦津丈夫(1930~2001)先生の授業であった。この原稿を書いていて、私が先生の授業を受けていた頃には先生は30代後半だったことを知ったが、何かもっと年配であるような気がしていた。年長者の年齢というのは分かりにくいものである。独文学者、歌人として活躍されたらしいが、そういうことについても無知であった。多くの学生にとって先生の専門が何であるのか、さらには教師の仕事を離れてのさまざまな側面が何であるのかは、それを好んで語られない限り知ることのない事柄であるし、教師がそれを好んで語ったとしても、記憶しているかどうかは定かではないことである。

 尾崎先生の研究室に中国語中級の受講者一同がかしこまっているところに、ロシア語の山口先生が入ってこられたという話は、既に2回書いたと思う。山口先生は大阪外国語大学がまだ専門学校であったころにロシア語を学ばれ、京大の大学院で言語学を学ばれた方であり、山口先生とともにロシア語を担当されていた小野理子先生は中国語・中国文学のご出身で、ロシア語はその後の経歴の中で習得されたのである。それで小野先生は授業中に自分の学生時代の話をされることがあったが、トルストイの『アンナ・カレーニナ』のシチェルバツキー公爵家(先生はシェルバツキーと発音された。モスクワ方言ではそういうそうである)には面会日が設けられているというくだりを読んでいて、吉川幸次郎先生も面会日を決められていた、貴族趣味だといわれた。尾崎先生にその真偽を確かめたところ、あれは我々が悪いんです、昔は先生にはいつ面会に出かけてもあっていただけたのだが、あまりにも学生のたちが悪いので、面会日を決められたとのことであった。

 尾崎先生の中国語中級の授業はまずまず順調に進み、その年の暮にはX君の発案で尾崎先生をお招きしてコンパを行うことになった。ゲストとして一海先生もお呼びするという話もあったが、わざわざ学生のコンパのために神戸から京都までやってくるのはまずあり得ないことである。尾崎先生からいろいろな話を伺うことができただけでももうけものと言ってよいのである。吉川先生の面会日の話も、この時に耳にしたのではないかと思う。先生の学生時代は騒然とした時期で、夜道を歩いていると警官から不審尋問を受けたりする。よせばいいのにわざわざ尋問されるようなことをする。例えばからのビール瓶を持ち歩いていると、火炎瓶だと思って警官から尋問される、そのたびに吉川先生の方に確認が行くので、先生も来るものは拒まずの方針を変えられたという話であった。

 尾崎先生は中国語音韻学がご専門で、授業中の話も語学関係の話が多かった。受講者は文学青年が多かったから、少し肌合いの違いを感じながらもついていったということであろう。岩波の中国詩人選集の『陶淵明』と『陸遊』を担当された一海先生を囲んで話を伺いたいというのも自然な話である。実は高校時代の漢文の時間に陶淵明について学んだとき、担当の先生がわざわざ中国詩人選集の一海先生による解説の一部をプリントして配ってくださったことを覚えている。その先生から中国語初級を習うことになったのは記憶すべきめぐり合わせである。さらに言うと吉川先生の当時新潮文庫に入っていた『中国の知恵』は高校時代によく読んだ本であるが、解説は尾崎先生が書かれている。書名は忘れてしまったが、別の本で一海先生が解説を書かれたものもあった。書物の解説は、著者の弟子が書くという学者の世界の慣行が生きていた時代の話である。

 自分が社会人になって初めて知ったことであるが、尾崎先生は東亜同文書院、一海先生は旧制高校のご出身であり、その点でも対照的なお二人であった。中国語の有気音と無気音の発音の訓練のために、自分で発音してみる際に、口の前に紙を構えて、有気音では紙が動き、無気音では動かないというように練習するというのは東亜同文書院における教育法の一環であったこと、先生とこの学校で一緒だった大城立裕の小説『朝、上海に立ちつくす』を読んでいて知った。高橋和巳の『憂鬱なる党派』、山田稔の『ごっこ』にも先生をモデルにしたと思しき人物が登場するという話で、その意味で尾崎先生は文学と関係の深い方である。

 傾向の違う2人の先生から中国語を学ぶことによって、それだけ学習の奥行きが出たということはあるかもしれない。語学の教師にさまざまな個性があった方が学生の動機づけが喚起されやすいはずではあるが、それは教師の実力があってこその話であることは言うまでもない。学生の方もやる気になるだけではだめで、現実に努力しなければならないのである。
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