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『太平記』(237)

11月19日(月)曇りのち雨

 暦応2年(南朝延元4年、1339)8月、吉野の後醍醐帝が病気になられ、16日、八宮義良(のりよし)親王への譲位などを遺言されて崩御された。〔本文には康永3年とあるが、これは誤りである。〕 帝に従っていた公家たちの落胆は大きかったが、吉野執行宗信が、諸国に宮方が少なくないことを説いて公家たちを励ました。12月、八宮が即位された(後村上帝である)。北畠親房が幼い帝を輔佐して政務をとり、諸国の宮方に先帝の遺勅を告げて戦闘の継続を促した。〔後醍醐崩御、後村上即位の時点で、親房は関東に滞在していたので、これも歴史的事実と異なる。〕 越前では、新田義貞の弟脇屋義助の家来の畑時能が、湊城を出て近隣を劫略し、由良光氏が、西方寺城を出て足利方の城を落した。〔後醍醐帝の崩御は8月であり、これらの動きは7月なので、日時に矛盾がある。〕

 7月7日に、新田一族の堀口氏政が、500余騎で居山(いのやま、福井県大野市日吉町にあった)城から出撃して、香下(かした、大野市上舌)、鶴沢(同市冨嶋=とびしまの古称)、穴間(あなま、同市朝日の九頭竜川上流一帯の古称)、川北(福井市河北町)の11か所に足利方が築いていた城を攻め落とし、降参してきた千余騎の人を引率して、河合(福井市川合鷲塚町)の庄に出て味方に合流した。

 総大将である脇屋義助は禰智(ねち、禰津ともいう、長野県東御市祢津出身の武士)、風間(信濃出身で越後に住んだ武士)、瓜生(福井県南越前町杣山に根拠地をもつ武士)、河島(鯖江市川島町に住んだ武士)、宇都宮(19巻に登場する泰藤らしい)、江戸(武蔵の武士、先祖は武蔵七党の中の秩父党の有力な武士であった)、波多野(はだの、吉田郡永平寺町に住んだ武士)ら3千余騎の大将として、国府(こう、越前市国府)から三手に分かれ、織田(丹生郡越前町織田、なお岩波文庫版では「おだ」とふり仮名が付けられていたが、私の記憶では現地では「おた」と言っていたように思う)、田中(同町田中)、荒神峯(こうじんがみね、福井市笹谷町)、安居(あご、福井市金屋町、日野川と足羽川の合流点をのぞむ場所である)の城、17か所を3日3晩のうちに攻略して、それらの城の大将のうち7人を生け捕りにし、士卒500人余りを誅して、河合の庄に到着した。

 7月16日、各地から集まってきた宮方の武士たちが合流し、6千余騎となり、三方から黒丸城の5つの城郭を包囲した。まだ戦わない先に、河合種経(たねつね)が降参して、畑時能の配下となる。畑は自分の率いてきた軍勢を連れて、夜半に足羽(福井市足羽)の乾(西北)にある小山に登り、夜通し、城の周囲をめぐって、鬨の声をあげ、遠矢を射かけて、あとから大勢の味方がやってくればまっさきに城に攻め寄せようと、その勢いを誇示して夜を明かした。

 上木平九郎家光は、加賀の武士でもともとは義貞に属していたのであるが、その戦死後は足利方に転じて黒丸城に留まっていた。その彼が、大将である斯波高経のもとにやってきて次のように述べた。「この城は、先年、新田義貞殿の攻撃を受けたときは、不思議のご運によって、勝利を得ることができましたが、その例に慣れて、今回も大丈夫とお思いなら、気がかりな考えです。と、申しますのは、先年この場所に攻撃をかけてきた敵兵は、ほとんどみな坂東や西国の武士たちであり、この土地の様子を知らない者たちであったので、深い泥田に馬を走らせたため、掘っておいた堀溝におちいって、(身動きができなくなり)最後には大将である義貞殿が流れ矢にあたって命を落とすということに相成りました士がいるかどうかをお。今回はかつての味方の多くが敵方に回っておりますので、寄せ手の側が城の近くの地理を知らないということはあり得ません。そのうえ、畑六郎左衛門(時能)という日本一の大力の号のものが、必死の思いでこの城の攻略に向ってきております。そういう時にあたって、この城内に畑に対抗できる武考え下さい。後詰の兵が救援にくるということもないうえに、平城に小勢で立てこもっていては、命を捨てるようなものです。これはあってはならない計略とお思いください。今のうちに、私の本拠地である加賀のほうに退却されて、京都から援軍が派遣されるのをお待ちになり、力を合わせて反撃されるほうが得策です。」 副将軍である細川一族の武士(名は不詳)、守護代の鹿草(ししくさ)兵衛助をはじめとして、黒丸入道と呼ばれた朝倉広景、朝倉彦三郎、越前の武士である斎藤三郎(藤原利仁の子孫)に至るまでこの意見に同意した。それで、高経は黒丸城の5つの城郭に火をかけ、その火を松明の代わりとして、夜のうちに加賀の富樫(金沢市富樫)にある加賀の守護富樫氏の城へと落ち延びていった。

 畑六郎左衛門の謀により、義助は、黒丸城を陥落させ、兄である義貞が高経を攻めて敗死した敵討ちを果たしたのである。

 斯波高経が退却したのは、脇屋義助の軍勢が多いうえに、自分たちの軍勢が少数で孤立していて勝ち目がないという上木の献策に従ったからで、畑六郎左衛門の方も特に謀を用いたわけではなく、自分たちの勢いを示しただけのことであるから、『太平記』の作者の言っていることはあまり要領を得ない。

 ほかにも今回取り上げた個所には気になる部分がある。畑六郎左衛門が足羽の乾の小山に登ったと記されているが、これはたぶん今日足羽山と呼ばれている山であろう(他に小山らしいものはないらしい)。だとすると、足羽川の中流域にある山であり、黒丸城は足羽川と日野川の合流点の近くにあったようなので、少し距離があり、畑時能が斯波高経たちが立てこもっている城の周囲を夜通し回ったというわけではないようである。ただし、黒丸城から、畑たちの動きはよく見えたであろうことは推測できる。

 あと、脇屋義助の配下にいた武士の中に永平寺とかかわりのある波多野氏の武士の名が見られる点も興味深い。源頼朝の兄である朝長の母親は波多野氏の出身であり、その本拠は相模の秦野であった。ところが治承寿永の乱の際に、波多野氏は源氏の味方をしなかったために、秦野から追われることになり、その一部が越前のほうに住み着くことになったのである。

 この個所に限らず、『太平記』に登場する武士たちを見ていくと、治承寿永の乱の時期に活躍した武士たちの末裔と思しき名前があり、その一方で戦国大名の先祖らしい名前もある。『太平記』はそういう意味でも、過渡期、変革期の文学であると思うのである。
 
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