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森本公誠『東大寺のなりたち』(12)

9月13日(木)曇り、夜になって雨が降りだした。

 第5章「政争のはざまで」の続き。
 東大寺は、聖武天皇がその夭折した皇太子・基王の冥福を祈って造営した山房が発展した大養徳国金光明寺を前身とする。天皇は鎮護国家のために全国に国分寺を建立しようとされるが、大養徳国金光明寺にはその模範としての役割が期待された。この時代、天災が続発し、公地公民を原則とする班田収授法の行き詰まりが明らかになる中で、聖武帝は律令政治から華厳経に基づく政治へと政治指針を変更しようとして、廬舎那大仏の造立を企画される。造立の詔が出された天平15年(743)が、墾田永年私財法の発布の年であることは、天皇における政治と仏教の結びつきを示すものである。大仏造立の作業は、近江紫香楽宮で始められたが、地震により都が平城京に戻ったことで、大養徳国金光明寺で展開されることとなった。
 天平19年(747)に大仏の鋳造が開始され、同21年には陸奥で黄金が産出されて、造立の成功の道が開ける。天皇は皇太子である阿部内親王に譲位されて出家、天平勝宝4年(752)4月に大仏開眼供養が行われる。この前後から、光明皇太后の甥である藤原仲麻呂がその政治的な影響力を増大させる。天平勝宝6年(754)には鑑真が来朝、聖武太上天皇に菩薩戒を授けたのをはじめとして、仏教の基盤をさらに固めた。
 この年、長く政治の中心人物の1人であった橘諸兄が引退、その後、聖武太上天皇が崩御され、その遺詔で孝謙天皇(←阿倍内親王)の皇太子に道祖王が立てられる。しかし天平勝宝9年(757)に藤原仲麻呂は孝謙天皇と諮って、道祖王を廃し、代わりの皇太子として、自邸に迎え入れていた大炊王を立てる。仲麻呂の権力の増大に危機感を抱いた、橘諸兄の子・奈良麻呂はクーデターを企てるが、密告のために失敗、関係者はきびしい処断を受ける。
 天平宝字2年(758)8月に孝謙天皇が譲位され、大炊王が即位される(淳仁天皇)。3年に光明皇太后は自らの手の中にあった御璽と駅鈴を淳仁天皇に引き渡される。天皇の位にありながら、これらを手にすることがなかった孝謙上皇の胸中は複雑であったと想像される。天平宝字4年(760)6月に光明皇太后が崩御される。このあたりから孝謙太上天皇には直系皇族としての淳仁天皇への優越感と仲麻呂への不信感が芽生えたようである。
 天平宝字6年(762)2月に仲麻呂は正一位を授けられる〔歴史上、生前に正一位を授けられた人物は6人だけで、仲麻呂は3人目である。なお、6人目は三条実美で、授けられたその日に没している。〕 しかし、孝謙上皇と淳仁天皇(および仲麻呂)の不和が顕在化し、上皇は出家されるが、国家の大権は保持し、(名目的には淳仁天皇にあるが)実質的には仲麻呂の手にあった人事権を再び自分のものとして取り返すと宣言された。

 天平宝字7年(763)に藤原宿奈麻呂(⇒良継)を首謀者とし、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らが加担した仲麻呂暗殺計画がくわだてられるが、事前に発覚、関係者はそれぞれ処分を受けた。
 その一方で、この年9月、少僧都慈訓(じきん)が解任され、その代わりに道鏡が少僧都に任じられる。『続日本紀』にはこの人事を行う詔が誰によってなされたかを記していないが、明らかに孝謙上皇によるものである。
 孝謙上皇は前年の6月に人事権をとり戻すことを宣言していたが、仲麻呂の影響力を排除して人事を行うことは困難であった。しかし、出家しているために僧界の頂点に立っていることから、僧綱の人事をその突破口としたのである。
 「道鏡は天平19年には良弁大徳の使い走りをする沙弥に過ぎなかったが、その後、呪術力によって急速に力をつけたらしい。・・・良弁の推挙を受けて・・・〔孝謙上皇の〕看病禅師として孝謙太上天皇の病気の治療にあたったようである。」(153‐154ページ)
 さらに天平宝字8年(764)正月の人事で吉備真備が造東大寺長官に任じられた。これは仲麻呂暗殺計画にかかわった人々が解任・降格させられた後の人事なので、仲麻呂の意向が反映しているはずであるが、真備は仲麻呂の長年の政敵であるので仲麻呂によって起用されたとは考えられず、孝謙太上天皇の意向が働いたものと考えられる。

 この年6月に授刀衛(後の近衛府)の長官(督)であり、仲麻呂の娘婿であった藤原御楯が死去する。御楯は、大尉(たいじょう=三等官の上位)の佐味伊与麻呂(さみのいよまろ)とともに、仲麻呂の軍事基盤の一角をなしていた。その佐味伊与麻呂は、孝謙上皇の態度に不安を感じていた仲麻呂が、淳仁天皇の勅旨を伝える役目につけたため、授刀衛から離れていた。それで、授刀衛の責任者は次官(佐)の百済足人(くだらのたるひと)となったが、彼は着任早々であり、当初は中立を保っていたらしい〔後に、太上天皇派に転じる〕。長官=不在、次官=中立、三等官=不在という状況の中で、残る幹部の四等官=少志弓削浄人(きよひと)は道鏡の弟で、太上天皇派であったことは言うまでもない。この後、仲麻呂派で固まっていた授刀衛は急速に孝謙上皇方に転じた。「太上天皇はいざというときの武力を手中にしたのである。」(155‐156ページ) 

 このような動きに仲麻呂は危機感を抱いた。同年9月に、彼は四畿内(大和・山城・河内・摂津、この時期、和泉は河内の一部であった)だけでなく美濃・伊勢ほか11カ国を管轄する都督兵事使に就いた。仲麻呂側も不穏な動きを示していたのである。
 9月11日、孝謙太上天皇は、御璽印や駅鈴の出納を任務とする少納言山村王に、淳仁天皇の手許にある印と鈴を接収させた。これを聞いた仲麻呂は、淳仁天皇に近侍していた息子の訓儒麻呂(くすまろ)に印と鈴をとり戻させた。印と鈴を奪われたと授刀舎人の物部磯浪から危急を聞いた太上天皇は、授刀少尉坂上苅田麻呂(かりたまろ、田村麻呂の父)・同将曹牡鹿嶋足(おしかのしまたり)らを遣わして訓儒麻呂を射殺、印と鈴を奪取した。仲麻呂は部下の中衛将監矢田部老(やたべのおゆ)に山村王を襲わせたが、授刀舎人紀船守が矢田部老を射殺、印と鈴は無事太上天皇のもとに10届けられた。太上天皇はすぐさま勅を発し、仲麻呂とその子・孫が謀反を起こしたので、官位を剥奪、藤原の姓を禁ずると命じた。〔この後、坂上苅田麻呂は正六位上から従四位下へと5階級昇叙され、その後も昇進を続けて、最終的には公卿に列する。彼の働きぶりへの評価がいかに高かったかがわかる。〕

 この御璽と駅鈴の争奪戦は、『続日本紀』には仲麻呂(恵美押勝)の謀反と記されているが、事件の経緯から、森本さんは孝謙太上天皇によって用意周到に準備されたクーデターだったと判断している。吉備真備が上皇により直ちに召し出され、参謀として軍略を練ったことはよく知られている。彼の軍略が奏功したことに加え、仲麻呂に反感を抱く人々が多かったことが、乱の鎮圧を早めた。森本さんは、東大寺の僧たちが正倉院の兵器を孝謙太上天皇方に進上することを提案、実行したこと、その中心人物が東大寺の上層にいた安寛や実忠(東大寺二月堂の修二会=お水取りを始めた僧)であったことを記している。
 ところが、この行動によって僧正に昇任したはずの良弁と大律師に抜擢されたはずの安寛の名が、『続日本紀』の論功行賞の一覧から抜け落ちている。これはいかなる理由によるものであろうかと、森本さんは問うている(ここでは答えを避けているのは、この後に展開する政争と関係するからである)。

 10月9日、孝謙太上天皇は兵部卿和気王・左兵衛督山村王・外衛大将百済王敬福らに兵数百を率いて淳仁天皇を捕らえさせ、廃位して、淡路国に幽閉した。翌年正月、太上天皇が重祚(称徳天皇)、天平神護元年(765)と改元した。10月、淡路に幽閉された淳仁廃帝を訪ねるもの多く、幽閉に耐えかねた淳仁は逃亡を図るが、失敗してその翌日死去した。〔この辺り『続日本紀』による記述であろうが、『続紀』には実際のところ、どのように書いてあるのか気になるところである。〕

 天平神護元年閏10月、称徳天皇は道鏡に太政大臣禅師の位を授け、文武百官に道鏡を拝礼させた。皇族出身者以外で太政大臣格の太師になったのは仲麻呂が最初であったが、称徳天皇は道鏡を自らの師と仰ぎ、仲麻呂と同じ位に就けようとしたのであろうか。〔太師という語には、天皇の師であるという意味がある。〕 その後、弓削寺に行幸された〔この弓削寺は道鏡の出身氏族である弓削氏の氏寺であったと考えられ、由義寺とも書かれるが、大阪府八尾市にあった寺院で、その遺構は今年になって国の史跡に指定されたそうである。〕

 「天皇の道鏡に対する態度は、仏教界に密教的な超能力者を求めるという風潮を世間に広める結果となり、あげくは僧基真のような希代の怪僧を生み出すもととなった。日本の仏教は今や変質への道を辿りはじめたのである。」(161ページ) 基真がどのような意味において「怪僧」であるのかの証拠となる事実は詳しく述べられていない。このあたりには、歴史学者としての森本さんの意見というよりも、華厳宗の僧侶である森本さんの仏教のあり方についての意見が込められているようである。最近、出版された馬場紀寿『初期仏教』にも述べられているが、「密教的な超能力」というのは本来の仏教の主張とは異なるものである〔だからと言って、いいとも悪いとも言えない。そういうことを言えば、念仏も、座禅も本来の仏教とは異なるものだからである。ただ、奈良時代の仏教が現在の仏教よりも、仏教本来の姿に近かったということは、『初期仏教』という書物を通じて読み取ることができた〕。

 孝謙上皇(⇒重祚されて称徳天皇)は一方で、自らの天皇としての地位が一時的なものであることを自覚され、その一方で自らが天武系草壁皇統を継承する唯一の存在であることも自覚されていたので、後継者の問題をめぐってさまざまに煩悶されたと想像できる。このため、皇位継承の選択肢として、天の加護を受けた出家者もありうるのではないかと考えられるようになった。その心中を推し量ったかのように道鏡を皇位につけるべしという宇佐八幡宮の神託をめぐる紛議が生じる。宇佐八幡宮と東大寺とは大仏造立をめぐって深い関係があり〔森本さんは書いていないが、東大寺の近くには手向山八幡宮がある〕、「八幡神託事件は東大寺にとっても疑念が持たれかねない政治事件であった」(161‐162ページ)。〔森本さんは余計なことは書かない方針のようで、称徳天皇が東大寺と対を成す西大寺を建立されたことなど、一言も触れていない。〕

 神護景雲4年(770)に称徳天皇が皇太子を立てないまま崩御される。後継者をめぐり吉備真備と藤原雄田麻呂(⇒百川)・永手・宿奈麻呂らとの意見が対立、結局、後者の意見が通って、諸王の中で最年長の白壁王(⇒光仁天皇)が立太子、さらに即位されることになる。光仁天皇の后である井上内親王は聖武天皇の皇女であり、支持が得られやすいという計算が合ったと考えられる。しかし、井上内親王と、その子で皇太子となった他戸(おさべ)親王は、あまりはっきりしない理由で廃され、山部(やまべ)親王(⇒桓武天皇)が皇太子となる。このような政争の展開は東大寺にも影響を及ぼすことになるが、それはまた次回。

 称徳天皇と道鏡の関係については憶測が乱れ飛んで、真相はわからない。上田正昭は両者が恋愛関係にあったという説を唱えたが、ある神社に参拝したところ、そこの神主さんが上田説に反対の方で、長い長い祝詞を書いて、この説に反駁を加えたという逸話がある。上田正昭は京都府亀岡市の小幡神社の宮司でもあったから、仲間喧嘩である。
 坂東三十三か所の第五番=飯泉観音(飯泉山勝福寺)は道鏡を開山としている。彼が失脚して下野国薬師寺に赴く途中で称徳天皇から賜った十一面観音を本尊としてこの寺を開いたという。10年ほど前に、東海道線の鴨宮駅から歩いてこの寺まで出かけ、その後、栢山の二宮尊徳記念館まで歩いたことがある。そのころは、まだ元気だったねぇ(などと言っている場合ではない)。 
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