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『太平記』(227)

9月10日(月)曇り、一時は晴れたり、雨が降ったり、変わりやすい空模様である。16時ごろから本格的に雨が降り出す。

 暦応元年(延元3年)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽七城を攻めた。7月、越後勢を合わせてますます強力になった新田軍のもとへ、吉野から八幡山の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は児島高徳の献策に従い、延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京へ発たせた。
 新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、師直は引き上げる前に包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も河内へ退却した。
 斯波高経は足羽七城の守りを固め、平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不思議な夢を見た。人々が吉夢だという中で、斎藤道猷は凶夢だと判断した。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬水練栗毛が、急に暴れ出すなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城へ出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られて討ち死にした。義貞が討たれた新田軍では、裏切りが相次ぎ、義助は越前府(えちぜんのこう=現在の福井県越前市)に退却した。義貞の北の方勾当内侍(こうとうのないし)は、義貞からの迎えの使者に伴われて杣山(福井県南条郡南越前町阿久和)まで来て、義貞の死を知った。京へ戻った内侍は、獄門に懸けられた義貞の首を見て尼となり、嵯峨に隠棲した。

 吉野の後醍醐帝は、頼りにしていた奥州の北畠顕家が安部野{現在の大阪市阿倍野区、ただし、史実では顕家は堺の浦(堺市)で戦死している}で戦死し、新田義興(義貞の次男)が北畠顯信とともに守っていた八幡も攻め落とされた目、将士の四季は衰えていたが、それでも北国の新田義貞が勢いを蓄えて攻め上ってくるという知らせを頼りとされて、今か今かとお待ちになっていたところ、義貞も足羽七城の攻略に失敗して戦死したという知らせが入り、蜀の後主が頼りとしていた諸葛孔明を失い、唐の太宗が名臣・魏徴の死を惜しんだのと同様に、そのお心は穏やかならず、臣下の者はみな望みを失った状態であった。

 この局面を打開しようと、奥州(白河)の住人である結城宗広(道忠)が参内して次のように申し上げた。宗広はすでに70歳を超えていたが、新田義貞とともに鎌倉攻略に功績をあげ、また北畠顕家が奥州から2度も長征を行った際には侍大将を務めた武将である:
「(戦死された)奥州の国司北畠顕家卿が、3年のうちに2回も上洛の兵を動かされたのは、出羽、奥州(陸奥)二国の将士が、みな顕家卿に従ったから可能になったことです。それで、奥羽二カ国の武士たちの心が変わらないうちに、宮様をお一方奥州に派遣されて、成功を収めた武士には直接恩賞を与え、不忠不烈の輩は根絶するようにすれば、奥州は平定されるでしょう。日本国の地図を見まするに、奥州54郡は、日本国の半分に及ぶ広さをもっております〔そんなことはない〕。若しある限りの兵が一方の味方をすれば、4/50万騎の動員にも達するでしょう。それで私、道忠が宮様を奉じ、この白髪頭に兜をかぶって兵を起こせば、またまた京都に攻め上り、これまでの敗戦の復讐を果たすことは、1年以内に可能となるでしょう」。
 この言葉を聞いて、後醍醐帝とその近臣たちはすべて、この提案は用いるべきであると賛成、実行に移そうとしたのである。

 そこで後醍醐帝の第八の宮・義良(のりよし)親王が今年7歳になられていたのを、元服させ、春日少将(北畠)顯信を扶弼(ふひつ=輔佐の臣)とし、結城道忠を衛府(護衛の武臣)として、奥州に下向させた。それだけでなく、新田義興、北条時行、宇都宮氏綱(公綱の子)の3人を、関東八カ国を平定して、宮の事業に助力すべしと、武蔵、上野の一帯に向かわせた。

 陸地を進もうとしても、敵の勢いが強くて通行が難しいというので、この軍勢は伊勢の国鳥羽の港に集まって、船を揃え、順風を待つ。8月15日の宵から、風がやみ、雲が収まって、海上が特に静かになったので、船乗りたちは纜を解いて、はるか遠方の東国へ向けて空翔けるように帆をあげた。兵船50余艘が、義良親王が乗船されている船を中心にして、天龍灘(遠州灘)を過ぎようとしたときに、海が急に荒れ狂い始め、逆巻く波は天にも届く激しさとなった。梶が折れて渦を巻く潮流に押し流される船もあり、また帆柱を吹き折られて、壊れていない片方の帆だけでただよって行く船もあった。日が暮れるといよいよ風が荒くなって、どこか一方に吹くということではなく吹きつのった〔というけれども、大体において西風であった〕。それで船は伊豆の大島、目羅の港(千葉県館山市米良)、亀川(今川家本には「神奈川」、横浜市神奈川区)、三浦(神奈川県の三浦半島)、由居浜(鎌倉市由比ガ浜)、あちこちに流されたのである。

 義良親王が乗船された船1艘は、大海原に流されて、いよいよ転覆しようかとしていたところに、盛んに光り輝く太陽が船の舳先に現れ出たかと思うと、風が急に逆方向に吹きはじめ、伊勢の国の突端、志摩半島の神風浜(伊勢市)に吹き戻されたのであった。多くの船が皆行方不明になる中で、この船だけが太陽の御加護を得て、伊勢の国に吹き戻されたというのは、ただ事ではない。この宮さまが皇位を継ぐお方として、天子の位に就かれるべきであることを天照大神がお示しになったものであろうと、すぐに奥州への下向を取り消され、後醍醐帝の吉野の御所へご帰還されるようにした。果たして、後醍醐帝が崩御された後、この八の宮=義良親王が即位された(後村上帝)のである。

 北畠顕家の2度にわたる征西については、すでに述べたように、『太平記』の記述をどこまで信じていいのか疑問なところがある。それぞれ、羽柴秀吉の中国大返しよりも長い距離を、かなりの大軍が相当な速度で移動していて、本当に大丈夫かと思われるからである。結城宗広(道忠)はこの2度の長征を経験しているので、3匹目のドジョウを狙ったのであろうが、兵站・補給が全く図られておらず(略奪で用を足している)、規律・統率も取れていない軍勢を大移動させるのは、沿道の人々にとって迷惑極まりない行為である。とにかく、道忠の企ては船団の難破によって水泡に帰する。
 難破して行方不明になったと書かれているが、吉野と連絡が取れなくなっただけで、生き延びた人々は少なくないようである。その漂着先として列挙されている中の一つが、神奈川(この場合、神奈川県ではなく、横浜市神奈川区の方である。京浜急行の神奈川新町から神奈川のあたりまでの海岸と考えればよい)が亀川と書かれている写本もあるというのが興味深い。神奈川には浦島伝説があるからである。 
 無事に伊勢に戻ってきた八宮のその後は記されているが、張本人の結城宗広はどうなったかというのはまた次回。

 
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