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山内譲『海賊の日本史』(7)

9月7日(金)曇り、朝のうちに雨が降ったらしくその跡が残っていた。

 この書物は日本史上に登場する「海賊」の姿を歴史上特に有名な例を取り上げて概観している。序章「海賊との遭遇」で、戦国時代の瀬戸内海における海賊の実態を取り上げながら、この時代の海賊には狭い海域で活動し、通行料の徴収をこととする浦々の海賊と、瀬戸内海を広範囲に活動し、上乗り(船舶の航行の安全のために、船に海賊を乗せること)などの行為によって警護料を徴収する有力海賊という異なるタイプの海賊が存在し、彼らの間には一種の重層的な関係が成立していたことが述べられている。また、通行料あるいは警護料が徴収できない場合には、彼らが暴力に訴えることもあった。
 その後、第1章「藤原純友の実像」では、もちろん藤原純友、第2章「松浦党と倭寇」では平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての松浦党の活躍(倭寇との関係については否定的である)、第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」では南北朝時代の熊野海賊、第4章「戦国大名と海賊―西国と東国」では、瀬戸内海海域で活躍した村上氏の3つの家、北条氏・武田氏の水軍が取り上げられ、西国に比べて、東国の「海賊」は水軍的な性格が強いことが語られる。豊臣政権の成立、さらに関ケ原の戦いを経て、多くの元海賊が陸上に上がったが、近世社会なりに海とのかかわりが存在していた限りにおいて、一定の海上勢力の存在が必要とされていた。

 終章「海賊の時代」は、これまでの内容のまとめと、その後の海上勢力の動向が記されている。
 まず、序章、第1章~第4章の内容をまとめる形で、海賊が4種類に類型化されている。
①海上を旅行する人々に接近して金品を要求するもの(略奪者としての海賊=土着的海賊)
②荘園領主や国家権力に抵抗するもの(権力への敵対者としての海賊=政治的海賊)
③航海の安全を保障するもの(安全保障者としての海賊)
④時の権力とかかわりをもつ水軍(水軍としての海賊)

 上記の4つのタイプの海賊像はそれぞれ歴史的に形成されたものであり、時間とともに推移していった。土着的海賊や政治的海賊は古代から存在するが、安全保障者としての海賊、水軍としての海賊は中世後期になってから登場する新しいタイプの海賊である。
 大ざっぱにみて14世紀に「政治的海賊」→「水軍としての海賊」という変化が起きた。これは、鎌倉幕府と室町幕府の海賊に対する姿勢の違いと関係している。鎌倉幕府は海賊を追伐の対象としているのに対し、室町幕府ではそのような事例はまれである。これは権力の側にとって海賊を自分たちの側に取り込むほうが有利になってきたことが理由だと考えられる。
 また同じ海上勢力が、平時においては安全保障者、戦時にあっては水軍としての性格をおびたということも考えてよい。
 歴史的にみると、土着的海賊は古代から存在し、政治的海賊は少し遅れて発生したと考えられる。

 「海賊」という語はもともと「賊」的(つまり悪い意味)で受け取られていたが、16世紀になるとそのニュアンスが変化し、有力者の幼名として使われたという例もある。特に、東国では海賊に悪い意味を読み取る傾向は希薄であったが、豊臣秀吉の海賊禁止令に見られるように西国では海賊の悪いイメージはけっして消え去るものではなかった。

 それでは海賊が後世に残した歴史的な遺産としてはどのようなものが考えられるか。一つは造船の技術とその伝統である。かつて海賊の根拠地出会った場所に、近代的な造船所が建設されている例は少なくなく、その伝統の継承を物語っている。
 第二は航海術であり、それを利用して近世以降水運に活路を見出す海賊の末裔たちも多かった。
 第三に、海賊たちの末裔の中にいは熊野灘での捕鯨に従事する者もあった。クジラ漁の組織や方法には、海賊としての経験が継承されているとみることもできるという。

 江戸時代の開運を担った弁財船などの大型帆船が西洋型帆船にとってかわられ、さらにそれが順次、汽船に変わっていくという日本海運史の大きな流れのはざまで、焼玉エンジンを装備した小型の(木造)機帆船が貨物輸送に盛んに用いられた。このような機帆船の運行に関わった人々の多くが、中世の海賊の活動した地域、あるいはその近くの住人であることも見過ごしてはならない。このような機帆船は、特に北九州や宇部で産出された石炭の運搬に関わった。「瀬戸内海という限られた海域において、数本のマストと簡便なエンジンを装備した小型舟を駆使して海に乗り出し、回漕業者の支配を受けながら、小回りの利く小型船の特性を生かして石炭などを運送し続けた機帆船の一杯船主の活動の中に、昭和の時代をたくましく生きた”海賊〟の姿を射る思いがするのである」(225ページ)と山内さんは書いている。
 このような機帆船による石炭の輸送は昭和の戦前には盛んで、戦争中は統制や徴用によって打撃を受けたが、戦後の船舶不足の時期には活況を呈するが、やがて鋼船にとってかわられることになる。
 山内さんは瀬戸内海海域について書いているが、東京湾でも私の子どもの頃(1950年代)には機帆船の姿が見られたような記憶がかすかに残っている。それがかつての北条水軍や徳川幕府の水軍の末裔によって運行されていたかどうかは定かではない。とはいうものの、三浦半島出身の知人の1人の祖父が咸臨丸の水夫だったという話を聞いたことがあり、塩飽のような瀬戸内海の人たちだけでなく、幕府の水軍関係者も咸臨丸に乗船していたのはたしかであるから、関東地方でも海賊の伝統は生き残っているといえるのではないかと思う。

 海賊の「長い歴史の中で蓄積されてきた知識や技術は、形を変えながら近世社会に受け継がれ、海に乗り出そうとする心性は、近世、近代を問わず日本人の心の中に生き続けることになったのだ」(225ページ)とこの書物は結ばれている。それを言えば、一番その種の伝統が残っているのは、旧帝国海軍と海上自衛隊ではないかと思うのだが、その点を含めて、さらに近代における海賊の遺産を追うことも、意味のないことではないと思う。
 この書物では「海」賊だけが取り上げられているが、水上勉の小説『湖笛』には(琵琶湖の水域で活動した)湖賊が描かれていたと思うし、他にもこのような例があるかもしれない。それも検討課題としていいのではないかと思われる。海賊の歴史は、一方では軍事的な歴史であり、他方では交通史・流通史でもある。この本を出発点として、著者の、また読者の中からの新たな研究活動が展開していくことが望まれる。

 
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