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森本公誠『東大寺のなりたち』(11)

9月6日(木)晴れたり曇ったり。
 台風21号が去ったと思ったら、今度は北海道が強い地震に襲われました。被害にあわれた方に心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧を願います。

 今回から第5章「政争のはざまで」に入る。聖武太上天皇の崩御後、孝謙天皇が譲位されて、淳仁天皇が即位、さらにその淳仁天皇が廃されて、孝謙太上天皇が再び皇位に就かれ(重祚され⇒称徳天皇)、その崩御後、天智天皇の孫の白壁王が即位される(⇒光仁天皇)までの<政争>が東大寺の側から描き出される。この一連の過程は、高校の日本史の授業でも取り上げられているし、古代史の愛好家にはなじみ深いものであるが、東大寺の側からそれを描いているというところにこの書物の特徴がある。
 少し、<政争>の背景について補足しておくと、この時代、藤原氏が政治的な力を増して来たので、歴代の天皇は皇族に姓を与えて臣下に下し、これを藤原氏の対抗勢力としようとした。聖武天皇の時代に活躍した橘諸兄はその代表的な人物である。後で出てくる高階氏とか、清原氏も同様で、平安時代になると、源氏と平氏が登場する。古代から続いてきた氏族、大伴氏とか、阿部氏とか、小野氏とかいうのは大体、この派に加担した。このほか、地方豪族出身で聖武天皇に能力を評価されて登用された人々もいた。
 一方、藤原氏は南家、北家、式家、京家の4流に分かれ、この時代は嫡流である南家出身の藤原仲麻呂が力を得ていたが、藤原氏の中でもそれに反発する向きもあった。

 天平勝宝8年(756)5月に聖武天皇が崩御された。東大寺の本尊である廬舎那仏の開眼法会は天平勝宝4年に行われたが、大仏殿の周囲を囲む歩廊(廻廊)はまだできていない。孝謙天皇と、その背後にいる藤原仲麻呂は造営に対しどのようなたいどをとるのか。良弁以下の東大寺の当局者としては政局の推移をじっと見守るしか手立てはない。聖武上皇崩御の翌月、来年5月2日の東大寺での一周忌に間に合わせるように、大仏殿歩廊の造営を鋭意怠るなかれという孝謙天皇の勅が下った。

 天平勝宝9年(757)正月に、前左大臣橘諸兄が死去した。既に政界を引退していたとはいえ、藤原仲麻呂にとっては重大な政敵の1人が消えたことになる。3月に、孝謙天皇は聖武太上天皇が遺詔で立太子させた道祖(ふなど)王の素行が悪いことを理由に皇太子の位を奪い、数日後、舎人親王の子である大炊王を皇嗣とした。大炊王は仲麻呂が、死んだ自分の息子の妻であった粟田諸姉を娶らせて、自分の邸に迎え入れていた。5月、仲麻呂は自分が新たに設けた紫微内相という地位につき、軍事的な指揮権も得た。彼の専横に対して反発する勢力も当然出てくるが、その点についても彼は抜かりなく手を打っていた。

 6月の人事異動で仲麻呂は諸兄の子である奈良麻呂を兵部卿から右大弁に降格したのをはじめ、反仲麻呂派の降格・追放と、自派の昇任・抜擢を断行した。追い詰められた反仲麻呂派は奈良麻呂を中心にクーデターを計画する。孝謙天皇・光明皇太后は何とかこれを抑えようとするが、事態の進行を止めることはできない。7月に仲麻呂は反対派の2人を逮捕して、拷問にかけ、その後関係者を続々と逮捕・処刑した。ところが奈良麻呂についての記事が『続日本紀』には見えない。おそらく、彼の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となり、2人の皇子である仁明天皇が即位されたために、奈良麻呂についての記録が抹消されたものと考えられている。

 クーデター計画を鎮圧した後、仲麻呂の完全な独裁政権が成立する。彼は自分の実兄である豊成すら、大宰員外帥に左遷してしまった。年号は天平宝字と改元される。「翌2年(758)7月4日、孝謙天皇は皇太后の病気平癒を願い、殺生禁断の勅を出した。次々と繰り出す仲麻呂の異色な施策に、皇太后は心身ともに疲れ果てたのであろうか。病床に臥し、旬日を経ても起き上がれそうになかった。仲麻呂は考えた。機は熟せりと。」(146ページ)
 8月1日、孝謙天皇は譲位、皇太子大炊王が即位された。『続日本紀』に「廃帝」と記され、明治3年になってやっと「淳仁天皇」を追贈されたこの皇太子にも過酷な運命が待っていた。
 仲麻呂は右大臣にあたる大保という中国式の官名を持った役職に就任、太政官の筆頭となり、さらに恵美押勝という姓名を賜った。

 天平宝字3年(759)6月、淳仁天皇は主要官人を集めて、詔を発せられたが、そこでは光明皇太后が大炊王が天皇らしくなったとして、それまで手元に置かれていた天皇御璽印と駅鈴を淳仁天皇に引き渡したことが示唆されていた。「どうやら光明皇太后は娘孝謙をあくまで未熟として信用せず、仲麻呂による藤原氏の政権を優先させたのである。」(147ページ) 在位中これらを手にすることがなかった孝謙太上天皇の胸中は複雑だったろうと、森本さんは書いている。
 しかし天平宝字4年(760)6月に光明皇太后が崩御された。孝謙太上天皇には直系皇統としての淳仁天皇への優越感と仲麻呂への不信感が芽生え始めたようである。(と、森本さんは書いているが、押さえつけられていたものが、表面に出てきたという解釈もできる。)
 光明皇太后が崩御された翌月(7月)、仲麻呂は勅が下ったとして、東大寺の封5000戸の用途を定めた。この文書の原本が正倉院に現存している。文字の全てを仲麻呂が書き記しているという点で異例の文書であり、しかも他者の連署がない(これも異例)ことから、これが彼の独断によるものであることが知られる。それまで東大寺の造営が終わった後の用途について決まっていなかったので、1000戸を堂塔の造営修理分に、2,000戸を三宝ならびに常住僧の供養分に、2,000戸を官家、つまり天皇家が行われる種々の仏事分にと定めていた。これは東大寺にとって有利な決定ではなかった。その影響は後世にまで及んだ。

 天平宝字6年(762)に仲麻呂は正一位に進むが、このあたりから孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和が表面化しはじめる。6月に、太上天皇は出家の意志を明らかにされる。その宣命によると、看病禅師であった道鏡との間を男女関係のように邪推されたことへの悔しさが述べられ、そのように邪推されるくらいなら出家するというのである。問題はこの宣命の後半部であり、太上天皇として保持する政治の大権は捨てることなく、むしろ天皇と二分して国家の大事は自分が担い、賞罰も行うと宣言されている。つまり聖武天皇が保持されていたが、現在は仲麻呂の手にある人事権をとり戻そうというのである。

 このような太上天皇の決意がどのような背景のもとになされたのかは興味ある問題であるが、人事権をとり戻すということになると仲麻呂一派との対立・衝突は避けられない。この後の事態はどのように推移するか。それはまた次回。
 大炊王=淳仁天皇の父である舎人親王は天武天皇の第三皇子で『日本書紀』の撰進者とされる。舎人親王の子である御原王の孫は清原氏の祖となった。天武天皇の子孫では、高市皇子から出た高階氏と、舎人親王から出た清原氏がその後、長く続くことになる。京都市伏見区にある藤森神社は舎人親王を御祭神の一柱としていて、菖蒲の節句の発祥地とされるが、なぜか今日では勝ち運と馬の神様としても知られているそうである。

 明日(9月7日)は別府葉子さんのコンサートを聴きに出かけるので、ブログの更新はするつもりですが、皆様のブログを訪問する時間的な余裕はないと思います。あしからずご了承ください。
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