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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(2‐1)

9月4日(火)台風21号が上陸、雨はそれほど強く降っていないが、風が強い。

 今回から『神曲 地獄篇』第2歌に入る。
〔第1歌のあらまし〕
 1300年4月4日、睡魔に襲われたダンテは暗い森の中に迷いこんだ。恐ろしい夜を過ごしたのちに、彼は頂上が明るく日の光に照らされている山のふもとにたどり着き、山を登ろうとするが、豹(lonza)、続いて獅子(leone)、雌狼(lupa)という獣に行く手を阻まれる(この3頭の獣は、じつは1体の悪の変容する姿である)。身体に窮した彼の前に「長き沈黙のためにおぼろげに見える人」が現れる。助けを求めたダンテに、彼は自分が『アエネーイス』の作者ウェルギリウスの霊であると知らせ、自分が彼を導いて、地獄と煉獄とを旅させると告げる。ウェルギリウスの霊に従って、ダンテは旅を始める。

 日は暮れようとしていた。鳶(とび)いろの空気が
地上の生きものたちを、そのつらい営みから
解放するころ、私だけはただひとり、
 苦しみと憐憫との戦いに
臨もうとしていたのを
誤ることのない記憶のままに話してみよう。
(1行~6行、28ページ)
 ダンテが森に迷いこんだのが4月4日で、山に登ろうとして獣に行く手を阻まれ、ウェルギリウスと出会って、旅立とうとするまでが第1歌で歌われたのだが、既に5日の日が暮れようとしている。鳶いろというのは鳶の羽の色、つまり茶褐色だそうである。山川訳では「仄闇(ほのくら)き空」となっていてこちらの方がわかりやすい。

 この後、ダンテは次のように歌う。
 おおムーサたちよ、おお高き詩才よ、今こそ我を助けたまえ。
おお、わが見しことを書きとめてきた記憶よ、
ここに、汝の貴き力を見せよ。
(7~9行、28ページ) この3行は『神曲』という叙事詩の性格を考えるうえで、いろいろ重要な意味をもっているのではないかと思う。キリスト教徒であるダンテが、異教の女神であるムーサたちに呼び掛けているのは、古代の叙事詩が文芸・音楽・舞踊・哲学・天文学など人間の知的活動をつかさどる9女神=ムーサたちへの呼びかけから始まっているという形式を踏襲したものである。ただ、その呼びかけが叙事詩の冒頭に置かれずに、ダンテの個人的な事情を述べた詩行に続いて出てくるというところに新しさがある。9女神の中で叙事詩をつかさどるのはカリオペーであるから、この女神だけに呼び掛けてもいいような気もするが、そうはなっていなないところに、古代⇒中世の叙事詩文学の総合芸術的な性格が現れているのかもしれない。

 ホメーロスの『オデュッセイア』の中でオデュッセウスが、またウェルギリウスの『アエネーイス』の中ではアエネーアースが、それぞれ死後の世界を訪れている。そのウェルギリウス(の霊)が目の前に現われて、彼に死後の世界を案内するという。ダンテが、自分にそのような旅をする資格があるのかと問うたのはごく自然の成り行きである。
 ローマとその帝国は、地上に(と言っても、ヨーロッパのそのまた一部分だけにではあるが)平和をもたらし、キリスト教の中心地となった。そのローマの遠祖であるアエネーアースが死後の世界を訪問したのは当然である。また、キリスト教徒であるダンテは使徒パウロが死後の世界を訪問したという伝説を踏まえて、パウロが信仰の支えをそこから持ち帰ったのも当然のことであった。   しかし、どうして私が行かねばならぬのでしょうか。誰が私にそれを
許すでしょうか。アエネーアースでもなく、パウロでもない私が。
わたしとても、他の人も、私にそれができるとは考えません。
(31‐33行、29ページ) なぜ、ダンテが死後の世界に赴かなければならないのかというのが彼の問いである。いったいこの旅にどのような歴史的な意義があるというのか。

 こうして彼はいったん同意した旅への歩みを止めて、立ちどまる。
 一度望んだことをもはや望まず、
新しい考えのために考えを変え、
始めたことをすっかり翻す人のように
 私もあの暗い山の麓にあって考え直したのだった。
というのも、思いあぐねた挙句に、あれほどはやる気持ちで
始めようとしていた企てを思い切ることにしたからである。
(37‐42行、30ページ)
 
 ウェルギリウスは怖気づいているダンテを叱咤激励するために、なぜ彼がここにやってきて、彼の眼前にいるかを説明しはじめる。
 「もしおまえの言うことを私がよく理解したなら」
と、その偉大なる精神[ウェルギリウス]は答えた。
「おまえの魂は卑小さにとりつかれている。
 人はしばしばこれにさえぎられて、
ほまれある事業から身を退ける、
けだもの[馬]がありもしない影を目にして立ちすくむように。
 この恐れからおまえが解き放たれるよう
お前に話しておこう、私がなぜここにやって来たか、そして
何を聞いて、おまえを初めて哀れと思ったかを。
(43‐51行、30ページ) 解説によると、ここでは「偉大なる精神」=ウェルギリウスと「卑小さにとりつかれている」ダンテとが対比されている。ウェルギリウスが、自己や他者、苦難や運命を従容として受け入れる勇気ある人であるのに対し、卑小なダンテは、他を受け容れるにも、自分を受け容れるにも心の器が小さいため、小心、臆病、怯懦に囚われ、自分に自信がなく、自分を評価することも信頼することもできないという。

 ダンテの死後の世界への旅は、他者と向き合うことによって自己を発見する旅でもあるという。ではなぜ、彼がその旅の旅人に選ばれたのか。ウェルギリウスのことばは続いていく。

 
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