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『太平記』(226)

9月3日(月)雨が降ったりやんだり、午後からは晴れ間が見えたりした。台風の進み方が速くなって、明日の午後には関東地方でも風が強くなるとの予報である。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)、新田義貞は越前で勢力を挽回し、足利方の斯波高経に対し優位に立とうとしていた。高経は足羽川流域に7つの城を築き、平泉寺を味方につけて対抗しようとした。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不吉な夢を見た。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬である水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城に出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られて討ち死にした。義貞が打たれた新田軍では、裏切りが相次ぎ、義貞の弟の脇屋義助は越前府(えちぜんのこう)に退却した。

 藤島で戦死したのが義貞だと知った斯波高経は、死骸を往生院に送って葬礼を営ませる一方で、首を家臣である氏家重国にもたせて、京都に上らせた。義貞の首が京都に着くと、足利方はこれぞ朝敵の第一の存在であると、獄門(獄舎の門)にかけた。
義貞は後醍醐天皇のもとで多くの武功をあげてその信頼を受け、また京都の町の人々にも人気があったので、その死を悲しむ人が多かった。

 中でもあわれをとどめたのは、義貞の北の方の勾当の内侍であった。勾当の内侍というのは後宮に仕える女官の職名で、内侍司の四等官(掌侍)が4人いる中の首位にあり、奏請・伝宣を掌る。後醍醐帝の側近であった一条行房(金ヶ崎城落城の折に自害)の娘である。義貞がその美貌にひとめぼれしたが、内侍は天皇に仕える身なので、恋が届きそうもないと煩悶しているのを知った帝が、彼女が義貞の妻となるように計らわれた。

 ふたりの仲は睦まじく、睦まじすぎて、義貞が、九州に落ち延びようとした足利尊氏・直義兄弟を追撃する機会を逃したという話は、第16巻に出てくる。(もっとも義貞の子どもである義顕、義宗は正妻の子、義興は別の女性との間に儲けた子であるから、他に少なくとも2人の妻がいたのである。) 義貞が北国に落ちる際に、道中の難儀を考えて、内侍を今堅田(滋賀県大津市今堅田)というところに残していった。一人残された内侍は敵の目を警戒し、また建武4年には父の行房が金ヶ崎で死去したことを知り、嘆き暮らしていた。

 義貞も、越前に入った後、できるだけ早く彼女を迎えようとは思っていたのだが、情勢が安定しないので延び延びになり、ときどき手紙のやりとりをするだけで済ませていたが、その年(暦応元年)の秋のはじめ(旧暦であるから七月)に、少し様子が落ち着いたということで迎えのひとを内侍のもとに使わした。待ちかねていた内侍は喜んで越前に向かい、まず杣山まで着いた。

 ところが、義貞は斯波高経の足羽七城の攻略に向かったということなので、杣山からさらに進んで、浅生津の橋を渡ろうとした。ここは原文では「杣山より輿の轅(ながえ)を廻らして、浅生津の橋を渡り給ふ」(第3分冊、390ページ、杣山から輿を引く轅の向きを転じて)とあるが、浅生津(現在の福井市浅水)は、杣山(南条郡南越前町阿久和の山)と、足羽七城の間、足羽七城よりの場所にあるから、方向転換の必要はないのである。岩波文庫版の第3分冊193ページに越前の地図が出てくるから、それでご確認ください。浅水は福井鉄道福武線の駅名でもある。
 浅生津の橋で、内侍は杣山城の城主である瓜生兄弟の一人、瓜生照(てらす)に出会った。照は馬を降りて、「どちらへ行こうとされるのでしょうか。新田殿は、昨日の暮れほどに、足羽というところで戦死されたのです」と涙を流しながら告げた。これを聞いた内侍は魂も消える思いで、涙をこぼすこともできない。輿の中に体を沈めて、半狂乱の様子であるのを、照は、輿を杣山に戻せと命じて、内侍を杣山城まで送った。

 杣山に戻った内侍は、城の中に義貞の生前の様子を偲ぶ手立てを見ては物思いにふけっていたが、次第に敵の軍勢が近づいてきて、杣山も安全とは言えなくなったので、京都に戻り、仁和寺に身をひそめることになった。
 都を足利方の軍勢が支配しているので、都にいても旅住まいのような気分であり、心はぼうっとして、袖は涙にぬれた状態で、むかしの知り合いの消息を訪ねて、大内裏の東門である陽明門のあたりにやって来た。
 すると、「あな、あはれや」などという人の声が聞こえるので、何事かとたずねてみると、越前まで訪ねていってあうことのできなかった義貞の首が獄門にかけられている。その変わり果てた様子に内侍は泣き倒れるのであった。近くにいた人々もこれを憐れまないということはない。こうして日が暮れ落ちるまで、帰ろうともせずに、泣きしおれていた。そのあたりにいた僧侶が、あまりにもおいたわしいことだと、自分の持仏堂に迎え入れたが、その夜のうちに内侍は髪を下ろして、出家したのであった。
 内侍は出家の後、しばらくの間は、まだ泣き悲しんでいたが、次第に仏心が悲しみに勝るようになり、嵯峨の奥、往生院のあたりで仏の道に専念することになったのであった。

 今回は義貞という重要人物の死後の動きが描かれている。義貞と勾当の内侍の恋物語が王朝風に語られているところに、『太平記』の作者の女性観・恋愛観が垣間見られるように思うが、それとは別に、この時代の女性たちが、男性同様に過酷な運命と立ち向かわなければならなかったという事実が、勾当の内侍という1人の女性を取り上げて語られていることに注目すべきである。護良親王の身近にいた南の御方、西園寺公宗の正室の日野名子、そしてこの勾当の内侍など、登場する紙面は限られているが、それぞれに必死になって過酷な運命と立ち向かう姿が印象を残す。(その中で日野名子は日記を残しているので、その個性をより詳しく知ることができる。) なお、勾当の内侍が仁和寺に隠れ住もうとしたというあたり、『徒然草』の作者とどこかですれ違ったと想像することもできる。

 ご存知の方も多いと思うが、『太平記』をもとにして山岡荘八が書いた『新太平記』は、勾当の内侍が義貞の死を知らずに、越前に向かうところで終わっている。吉川英治の『私本太平記』が、足利尊氏の死をもって終わっているのと対照的である。なお、この『太平記』は足利義詮が死に臨み、我が子義満の後見人として細川頼之に後事を託し、頼之の善政で天下が太平になるという結末である⇒実は、まだまだ紆余曲折があるのだが、作者が面倒になったので打ち切ったとも考えられる。多くの人たちが指摘しているように、『太平記』の後半は進行する事態が混乱して、作者の思想ではまとめきれないような事態が展開し、事態を追うのが精いっぱいという状態になる。その傾向がそろそろ明らかになってきている。
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