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和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料」(2)

9月1日(土)曇り、夜遅くなってかなり強い雨。

 『信長公記』は信長の近臣の一人であった太田牛一が自分自身の日記や信頼できる記録をもとにまとめた織田信長の一代記であり、その史料的な価値について高い評価を受けてきた。ここでは、その膨大な情報を含む『信長公記』から興味深いと思われる記事を抜き出して、それに解説を加えている。さらに最新の信長研究の成果も取り込んで、信長の人間像を明らかにしようとするものである。
 織田一族は尾張守護の斯波氏の守護代を務める家柄であったが、いくつかの流れに分かれ、信長の父・信秀はその中の一支流、守護代の三奉行の一つである弾正忠家の三代目の当主であるが、非凡な能力の持ち主で他家を押しのけて尾張に覇を唱えるようになった。しかし、美濃の斎藤道三に敗れて窮地に陥り、打開策として、その道三の娘を信長の正室に迎えることで失地回復を図った。
 しかし、その信秀が比較的若くして病死し、尾張国内は再び戦乱状態に戻った。信長の尾張統一への道は遠い。
 一方、娘婿である信長の様子を心配した斎藤道三は信長と会見し、その人物が傑出したものであると見抜き、信長との連携を強める。しかし、その道三は実子である義龍に背かれ、敗死する。義龍は織田一族の岩倉織田氏だけでなく、信長の異母兄信広や同母弟信勝ともよしみを通じ、信長を苦しめることになる。

 ということで、今回は信長の兄弟についてみていく。信長の兄弟は、系図類によると11人であるが、あまり知られていない。しかし『信長公記』にはこの11人全員が登場している。
 三郎五郎信広。異母兄。天正2年(1574)、長嶋攻めで討死。
 安房守秀年。信広の同母弟。家臣に自害に追い込まれる。
 三郎信長。
 武蔵守信勝。同母弟。信長に誘殺される。
 喜六郎秀孝。家臣に誤射され横死。
 彦七郎信与(のぶとも)。元亀元年(1570)、長嶋の一揆に攻められ自害。
 三十郎信包(のぶかね)。同母弟ともいわれる。長野家の養子となり、長野信良と称す。
 九郎信治。元亀元年、討死。
 源五郎長益(ながます)。有楽斎。茶人として大成。
 半左エ門秀成。天正2年、長嶋攻めで討死。
 中根信照。信広の同母弟。のち大橋和泉守定永。
 又十郎長利。本能寺の変で討死。

 この書物では異母兄の信広、同母弟の信勝、喜六郎について取り上げている。兄弟の中で、信長が一家の惣領となった経緯や、彼の人となりを知るのに、この3人と比べていくのが一番適切であるということであろう。
 信広について。信長の母が正室であったので、信長が嫡男とされたといわれることが多いが、信長の母が信広の母に比べて家柄がよかったとは言えないと和田さんは論じている。しかし、信秀の三河侵攻への橋頭保である安城城の守備を任されていたが、今川方に敗北し、人質になるという失態を演じた(この時、織田の人質になっていた竹千代⇒徳川家康と交換されたといわれるが、ここでは触れられていない)。このため、後継者候補から脱落したと考えられる。
 信広はその後、斎藤義龍と結んで信長に離反したこともあったが、やがて降伏し、信長に忠実に仕えるようになったようである。『信長の天下統一を支える有力な一門衆だったが、天正2年(1574)の長嶋攻めで討死してしまった。」(45ページ) この長嶋攻めでは信長は多くの一族・家臣を失っており、忘れることのできない危機だったと思われるという。(逆に、その危機を乗り越えて、天下取りの道を歩んでいったところに、彼の非凡さが現れているとみることもできる。)

 信勝は、信長と家督を争い、最後は清州城で誘殺された。信秀の死後、信長は那古野城をそのまま継承したが、信j勝は信秀が晩年に居城とした末盛城を相続し、信長の家老衆にも匹敵する宿老衆が付けられた。信秀の法要の際に、信長は奇矯なふるまいを見せたが、信勝は礼にかなった作法でふるまったという。つまり常識的な物差しで測れる器であった。
 和田さんは、信長にとって最大の危難はこの弟信勝との稲生の戦いであったとしている。「大げさに言えば、九死に一生ともいうべき窮地であった反面、のちの信長の出発点ともなった重要な戦いでもあった。後年の天下人信長を成したのは、長篠ではなく、さりとて桶狭間でもなく、稲生の戦いの勝利だったといえるほどの戦いだった」(47ページ)と論じている。
 信長の一番家老である林秀貞が裏切り、信勝付きの柴田勝家と共謀し、信勝を家督に据える謀反を企てた。弘治2年(1556)に、信勝を警戒した信長は、その侵攻に備えて名塚に砦を築き、佐久間盛重に守備させたが、信勝方は大雨で援軍を送るのが困難と判断して、柴田勝家、林秀貞の弟の美作守がこの名塚の砦を攻撃した。しかし信長は援軍を率いて駆けつけ、劣勢の軍勢を叱咤して、各個撃破戦術を取って、勝家軍を破り、さらに林美作守の軍勢に攻めかかり、自ら美作守を突き伏せて討ち取る。その後、首実検で信長は美作守の首を蹴飛ばしたという(これは大将らしくない振る舞いだと、和田さんも認めている)。
 勝利した信長は、林秀貞、柴田勝家らとともに、信勝も許したが、信勝に対する警戒は怠らず、また信勝も範囲を抱き続け、最終的には柴田勝家の密告により、信長は信勝を清州に誘い出して殺すことになった。

 喜六郎は、信長、信勝の同母弟のようであるが、叔父である守山城主の織田信次が若い家臣を引き連れて川狩(川で魚を取ること)に出かけているところに、馬一騎で通りかかり、信次の家臣に無礼者だとして弓を射かけられて死んでしまった。間違いとわかって、信次は慌てふためき、そのまま逃亡して数年間浪人生活を送ることとなった。
 この事件に際して、信勝は、信長に相談もせずに、守山城下に駆けつけ、町に火をかけて守山城を孤立させた。信長も遅れて駆けつけたが、家臣の者から事情を聴き、喜六郎にも非があることを認めて、事態を丸く収めようとしたという。信長と信勝とを比べると、信長の方が格段に思慮深いというのである。

 信長の姉妹は十数人いたが、『信長公記』には一人も登場しないという。

 織田一族の中で傍流であった弾正忠家の信秀が、一族中最大の実力者にのし上がったように、信秀の子どもたちの中での競争を勝ち抜いて、信長が家督を勝ち取ったことがわかる。信長がその武勇と知略において優れた存在であることは分かったが、彼の天下人への道は、まだまだ遠い。  
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