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森本公誠『東大寺のなりたち』(10)

8月30日(木)晴れたり曇ったり

 いよいよ開眼である。
 「『開眼』と声が上がると、開眼師が仏前に進み、介添の仏師と共に吊り籠に乗り轆轤(ろくろ)で引き上げられ、筆を執って眼に点じた。筆の一端には縹(はなだ)色の縷(る)が結わえられていた。参集人はその縷に手を添え、ともに結縁(けちえん)できた喜びに浸った。」(123ページ)
 著者である森本さんは、その師である宮崎市定から「たとえ異次元の世界の記録でも、目のまえに情景が浮かぶように訳さなければ、それは正確に訳しているとは言えないと心得なさい」(217ページ)と言い聞かされたという。一応の情景は眼に浮かぶが、具体的にみていくと、問題が残る。
 まず、「開眼」の声を発したのはだれであろうか。式次第が定められている以上、開眼供養の進行役がいたはずである。造東大寺司の官人のだれかであろうか、良弁あるいはそのほかの東大寺の僧であったのか、あるいはもっとほかの役人であったのか、ここには記されていない。森本さんにはある程度見当がついているのかもしれないが、だったら、その旨を書いてほしいところである。開眼師はもちろん、婆羅門僧正=菩提僊那である。仏師は大仏像の鋳造に功績があった国中公麻呂であろうか、あるいはその配下の仏師であろうか。ろくろで籠を釣り上げて、開眼師と仏師とを大仏の目の前に引き上げるというのはかなりの大技である。(既に述べたが、後に後白河法皇が開眼を行う時には足場を組んでそれに登っている。) ここは身軽でいざという時に対応できる人物が選ばれていると考えていい。これまたすでに書いたことだが、開眼の際に使用した筆は正倉院に現存する。またその筆に結び付けられた縷(る)も現存するそうである。縷は糸のことだそうであるが、この場合糸では頼りない。まあ、見ればわかることだ。縹(はなだ)色というのは薄い藍色と辞書にあるが、文献によっては、五色とするものもある。これまた、実物を見ればわかることである。人々は、菩提僊那が廬舎那仏像の開眼のため作法にのっとって動かしている筆と結びついた糸をもつことで、大仏開眼の盛儀に自らも参加したという実感をもつことができたのである。
 正倉院に残されている「開眼縷一条」の長さは200メートル弱だそうである。大仏像から中庭まで優に届く長さである。

 開眼作法が終わると華厳経講讃法要に移る。大仏殿の前庭の左右に高座が設けられ、講師の隆尊律師と読師の延福法師が左右に分かれて高座に登った。向かって左が講師、右が読師の座である。この時、前庭の外に待機していた僧と沙弥1万人弱が役人の引導によって入場する。雅楽が演奏され、香がたかれる中で、講讃が始められた。
 講讃が終わると、内外の歌舞音楽が演奏される。雅楽寮と寺院に属する楽人たちだけでなく、皇族や貴族たちもたしなみとして日ごろ練習してきた舞踏を披露した。なんと左大臣橘諸兄までが15人を率いて鼓を撃っている。
 さらに四伎楽隊による行道演舞や、倭歌舞、雑楽(外来の雅楽)の演奏が続いた。この時に使用された伎楽面は東大寺や正倉院に多く現存する。私も見たことがあるし、読者の方々のなかにもご覧になった方が少なくないはずである。こうして、開眼会は夕刻まで行われた。
 法会が終わり、太上天皇と皇太后は平城宮に還御され、東宮に入られた。一方、孝謙天皇は大納言藤原仲麻呂の田村の邸宅に入り、御在所とされた。

 開眼会から数日がたって、出仕僧らに使者が派遣され、大蔵省からの布施が支給された。この中では講師である隆尊の華厳経講説に対する布施の大きさ、それによって判断される評価の高さが注目されると森本さんは論じている。ただ、布施は個々の僧が私物化するのではなくて、寺の中で他の僧と分け合うはずであるということも考える必要があるだろう。

 大仏開眼について唐と新羅とに使者を派遣して伝えたことはすでにふれたが、開眼会直前の閏3月22日に、新羅が大使節団を派遣してきたという知らせが、大宰府から届いた。それまでの新羅との緊迫した外交関係を考えると、新羅が皇子を代表とする使節団を派遣するというのは極めて異例のことであり、しかも大人数であるだけでなく、王子とは別に貢調使としての大使も立てているという。日本は神功皇后時代という神話的な時代の出来事を根拠として、新羅を朝貢国と位置づけていた。新羅側には名を捨てても実を取る方が賢明であると思われるような国際的な事情があった。これまでも、新羅としては日本との外交関係の修復を図ってきたが、対外関係の変化に応じて、朝貢という形を取ったり、対等の関係をもとめたりしてきた。
 ここで、新羅が対等の関係を求めるという従来の姿勢を変化させて、朝貢という形をとるようになったかをめぐっては、新羅側の華厳経学の国教化、聖武天皇による廬舎那大仏の造立と『華厳経』の欽定化をきっかけとして、両者の接近が可能になったと新羅が判断したということであろうと森本さんは推測している。
 日本と新羅との間には、仏教の教学特に『華厳経』をめぐっては盛んな交流が続けられていて、「政治の上での外交は険悪であっても、仏教交流については新羅の先進性に自信もあって、日本の天皇による巨大な廬舎那仏の造像を好意的に理解し、『華厳経』の説く教説が政治の上でも生かされていると期待したのかもしれない」(131ページ)と森本さんは推測している。これは森本さんが華厳宗の僧侶であることを割り引いても、納得のいく議論である。

 ところが孝謙天皇を頂く日本側は新羅の深意をあえて探ろうとせず、新羅側に日本への臣従を迫ろうとした。「ここで重要なのは、孝謙天皇にこのような言葉を言わしめた当時の日本の政権担当者たちのことである。彼らは、聖武天皇が意図した『華厳経』による理念をまったくと言ってよほど理解していなかったといえる。譲位をした聖武天皇の限界と言わねばならないであろう。」(134ページ) 森本さんは書いていないが、そういわしめたのはおそらく藤原仲麻呂であって、彼は新羅征討を考えていたような人物であったから、両者の関係がうまくいくはずがないのである。

 大仏開眼から2年を経た天平勝宝6年(754)正月、鑑真が遣唐副使大伴古麻呂の船に乗って来朝した。2月1日に難波津に着いた鑑真一行は、唐僧崇道と行基の弟子法義の出迎えを受け、河内国庁を経て、4日に平城京入りし、東大寺に落ち着いた。東大寺で一行を迎えたのは良弁であったが、一行を大仏殿に案内し、廬舎那仏像の前で「これは聖武太上天皇が天下の人々を結縁して造らせられた金銅像で、高さが50尺ありますが、唐にもこのような大像はございますか」と尋ねた。この時通訳をしたのが遣唐使に加わって渡唐した藤原仲麻呂の六男、刷雄(よしお)で、鑑真のもとで出家して延慶と名乗っていた。鑑真は「ない」と答えて、自慢そうに言うのも無理のないことだと、日本における仏法興隆を確かめた。もっともこの話、刷雄と延慶を同一視することについては異論もあるそうである。

 3月に入ると、遣唐副使だった吉備真備が鑑真のもとを訪れ、授戒と伝律は鑑真に一任するという聖武太上天皇の綸言を伝えた。4月初めには大仏殿前に臨時の戒壇が設けられ、聖武太上天皇をはじめ、多くの人々に戒が授けられた。先の新羅との交渉では孝謙天皇が前面に出ているが、この鑑真来朝をめぐっては聖武太上天皇のほうが前面に出ている。「唐風好みの仲麻呂は鑑真を厚遇した」(135ページ)とあるが、皇帝>太上皇帝というのが中国風であることは当然、森本さんも知っているはずである。
 7月に聖武太上天皇の生母である藤原宮子が亡くなった。この年の10月になると、聖武太上天皇は体調の衰えから床に伏しがちであった。11月に左大臣橘諸兄の酒席における太上天皇に対する言動に範囲があるとの密告がなされたが、太上天皇は取り合おうとはされなかった。しかし、この件を知った諸兄は、翌年2月2日に孝謙天皇に辞任を申し出、天皇に許諾を得た。これはより大きな事件の前兆であった。

 5月2日に、聖武太上天皇が崩御された。遺詔により天武天皇の孫で、新田部親王の子、中務卿従四位上道祖(ふなど)王を皇太子とした。しかし、政治の動きは聖武太上天皇の意思とは別の方向に動き始めていた。皇太后は太上天皇遺愛の品をはじめ、宝物六百数十点を東大寺の廬舎那仏に奉献した。また同日、60種に及ぶ薬物も奉献した。このような献納は5回に及んだが、それぞれのたびごとに詳しい目録が作成された(今日、かなりの部分が正倉院御物として伝存する)。このような献物帳の中でも皇太后の願文と目録とから構成されている『国家珍宝帳』は圧巻であると森本さんは言う。一方で皇太后の切々とした思いが感じられ、その一方で、願文に続いて連署した官人たちの名前を見ていると、当時の現実の政治世界に引き戻されるという。「国家珍宝帳は光明皇太后を後ろ盾として権勢を振るう藤原仲麻呂の姿をまざまざと浮かび上がらせるのである」(139ページ)と森本さんは説く。

 政治の動きは聖武太上天皇の意思とは別の方向に、これまでのところ藤原仲麻呂の思惑通りに進んでいるようであるが、それに反発する動きも当然予想できる。これ以後の政局はどのように展開していくか、それはまた次回に取り上げることにする。それにしても、正倉院御物その他を通じて、我々は奈良時代の歴史についてかなり正確に復元でき、藤原道長・実資・行成の日記が残っていることによって、摂関時代の政治について多くのことを知ることができる。「取り戻せ!記録を大事にする日本」と声を大にして叫びたい。

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