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『太平記』(225)

8月27日(月)晴れ、暑い。夜になって雷鳴、雨が降りそうである。

 暦応元年(改元は8月なので、この時点ではまだ建武5年、南朝延元3年、1338)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽城を攻めた。7月、越後勢を合わせた新田軍のもとへ、吉野から、八幡山の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、延暦寺から同心の旨の返牒を受け取ると、弟の義助を京へ発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返した。その際、師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。
 斯波高経は足羽川流域に7つの城を築いて新田勢の来襲に備えていたが、比叡山の末寺でありながら、藤島庄の経営をめぐって対立していた平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不吉な夢を見た。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の名馬水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城へ出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られた討ち死にした。

 新田義貞の軍が引き上げて後、斯波軍では義貞の首を取った氏家光範が斯波高経の前にやってきて、自分は新田一族らしい敵の武将を討ち、首を取ってきた。誰であるとも名乗っていなかったので、名字はわからないが、立派な馬に乗り、物の具を身につけているだけでなく、従っていた武士が死骸を見て腹を切り、討ち死にをしたところから判断すると、どうも主だった武将であったように思われると、また血を洗い落としていない首と、泥の付いた金襴(金糸で模様を織り出した錦の織物)のお守りを添えて差し出した。

 高経は、この首をよくよく見て、不思議なことだ。義貞の顔つきによく似ている。もしそうであれば、左の眉の上にや傷の跡があるはずだと、自分で鬢櫛を取り、髪をかき上げ、ついていた泥を洗い落とさせて、これを見ると、果たして左の眉の上に傷の跡があった。どうもそうに違いないと、思いついて、武士が身につけていた二振りの太刀を、持ってこさせてみてみると、柄(つか)の部分は金と銀で飾って作ってあるが、一振りは、金の鎺(はばき、鎺金ともいう。太刀の鍔の上下にはめて鍔元を固定する金具)の上に銀で鬼切という文字が記されていた。またもう一振りは、銀の鎺金の上に、金字で鬼丸と記されていた。「鬼切」、「鬼丸」というこの二振りの太刀は、源氏代々の重宝で義貞のところに伝わっていたという噂であったのを、今ここで見たのは不思議である、さてはこの首の持ち主は義貞であることに疑いないと思い、さらにまた彼が肌身離さず持っていたお守りを開けてみると、後醍醐天皇が手ずから書かれた書状で、「朝敵征伐のこと、天皇が頼りにされているのはひとえに義貞の武功である。義貞にのみ期待し、他に代えようとは思わないので、できるだけ早く計略をめぐらすべきである」と書かれていた。これで義貞であることは間違いなくなったと、死骸を輿に乗せ、時宗の僧8人に担がせて、葬礼追善のために長崎の往生院(福井県坂井市丸岡町長崎にある往生院称念寺。北陸の時宗の中心発展し、長崎道場の名で知られた。新田義貞の墓所がある)に送った。首を朱の唐櫃の中に入れて、氏家一族の氏家重国にもたせて、ひそかに京へと上らせたのであった。
 「鬼切」は渡辺綱がこれで鬼の腕を切ったと伝えられる。第17巻では義貞が大宮権現に奉納したとされていた。「鬼丸」は北条時政が小鬼を切った太刀で、時行まで北条氏に伝わったという太刀で、源氏の重宝である。時行は、この時点ではまだ生きているので、なぜこの刀が義貞の手に入ったのか不思議である。往生院は室町時代につくられた縁起によれば、養老5年(721)に越の大徳と呼ばれた泰澄によって開かれ、正応3年(1290)に他阿真教によって時宗に改められたという。泰澄の伝記についてはよくわからないが、白山を開いたといわれ、福井県のかなりの寺が彼を開祖としているようである。往生院の門前に一時、明智光秀が住んでいて、その後仕官して、次第に出世していったという。それで(多分、『奥の細道』の帰りだと思うが)芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」という句を詠んでいるそうである。

 義貞の弟の脇屋義助は、河合の石丸城(福井市石盛町にあった城)へ帰って、兄の消息を訪ねた。はじめのうちははっきりとしたことはわからなかったが、だんだん成り行きがわかってきて、戦死したといううわさが伝わってきたので、すぐに斯波高経の本拠である黒丸に押し寄せて、大将の戦死した場所で、我々も戦死しよう(そのくらいの意気込みで、敵を討とうということであろう)」といったが、士卒はみな途方に暮れて、茫然自失としてしまい、気勢が上がらなかった。

 そればかりか、いつの間にか裏切り者出てきて、石丸城に放火するものが現れ、一晩のうちに3度もそんなことがあった。これを見て、斎藤季基と彼の叔父である道猷は義貞の側近として、大将の近くに役所(詰所)を構えるような存在であったが、夜のうちにどこへともなく去っていった。これをはじめとして、将士の中のあるものは発心したわけでもないのに出家して、
往生院長崎の道場に入り、あるいは縁者を頼って、詫びを入れ、黒丸城の斯波高経に降参したりしたので、昨日まで3万騎を越えていた新田一族以外の外様の軍勢は、一晩のうちに逃亡してしまい、夜が明けてみるとわずかに2千騎足らずになってしまった。

 こんなことでは北国で勢力を伸ばすことは難しいというので、(鯖江市上戸口町の三峯山の)三峯城に河島維頼を置き、杣山城には瓜生一族を置き、九頭竜川河口の三國湊の城には畑時能を残して、7月5日の暮れ方に、義助父子は、禰智、風間、江戸、宇都宮らの武士たち700余騎を率いて越前の府(こう、福井県越前市国府)に帰ったのである。

 大将である義貞が戦死すると、大部分の将士は新田方を見限って去って行ってしまう。このあたり、いつものことながら、まことに現実的である。義貞は欠点も多かったが、剛勇に加えて、士卒をいたわり励ますことでは優れた大将だった。それに比べると弟の義助は大将としての魅力に欠けていたようである。とにかく、義貞という巨星が落ちてしまうと、北陸の宮方の劣勢は明らかになる。さて、これからの展開はどうなるのだろうか、というのはまた次回。 
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