FC2ブログ

和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』

8月24日(金)午前中、風雨。時々、強い風が吹いた。午後になって雨がやんで、晴れ間も見えてきた。

 8月23日、真弓常忠『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)、続いて和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』(中公新書)を読み終える。ともに読みごたえのある書物であったが、内容について比較的まとめやすそうな後者をまず取り上げることにする。4章からなり、時代小説を読みなれていると、大体知っているような話が多いのだが、それでも実際はこうだったのではないかときめ細かい考察を展開していて、興味深い。今回は第1章の途中までしか紹介できなかったが、その面白さの半分くらいは実感していただけるのではないかと思う。

 『信長公記』はその名の通り、織田信長の一代記であり、信長にその弓矢の腕前を認められ、馬廻衆として仕え、後に信長の重臣である丹羽長秀の与力として奉行職も務めた太田牛一が、自分自身の日記や信長についての記録をもとにまとめた書物であり、著者が信長のそば近くにいた存在であることから、歴史的な史料として高く評価され、信長研究の基本史料の一つとされてきた。
 江戸時代以後、この『信長公記』の内容を小瀬甫庵が「増補」した『信長記』(この書物では『甫庵信長記』と表記)が一般に流布し、桶狭間の奇襲とか、長篠の戦における鉄砲三千挺など、ここから広がった説が少なくない。しかし、厳密な歴史研究を進めようとすると、信長側近の人物であった牛一の『信長公記』の記述を確認する必要がある。
 『信長公記』の伝本は多く、異同もあるが、著者は、最近急速に進んでいる『信長公記』研究の過程で、諸本の整理にあたった経験を生かして、大部にわたる著書の中の興味深い出来事を抜き出して、紹介して全体の紹介に代えている。

 序章「『信長公記』とは」で、以上述べたようなこの書物のなりたちや性格について概観した後、第1章「尾張統一と美濃併呑」では、『信長公記』の記述に加えて、他の史料も参照しながら、織田氏の起こりと一族の中での信秀、信長父子の台頭の経緯を概観し、信長による美濃進出と岐阜城を居城とするまでを記述している。
 織田一族はもともと、越前の劔神社の神職の家柄であったが、尾張・越前の守護である斯波氏の被官となり、斯波氏にしたがって尾張に移り、やがてその織田一族の中で織田伊勢守家と織田大和守家が守護代として実権を握るようになったが、大和守家の別家の出身でその三奉行の一人であった信秀が頭角を現して、尾張の国の旗頭的な有力武将にまでのし上がった。しかし、駿河の今川氏、美濃の斎藤氏との両面作戦が頓挫し、凋落の道を歩むことになる。それまでは信秀の武略に押さえつけられていた守護代織田家が反撃を開始したのである。それに織田家の他の流れや、駿河の今川氏、美濃の斎藤氏が加わり、信秀は四面楚歌の状態に陥った。しかし信秀は平手政秀の尽力によって、美濃の斎藤道三の息女を自分の息子である信長の正室に迎えることで局面を打開する。
 この結婚は有名なのだが、この時信長は16歳、斎藤道三の娘は15歳。道三の娘についてはその本名は確認できず、美濃から来た姫という意味で濃姫と通称される。山岡荘八原作の小説を映画化した『風雲児 織田信長』(1959)などで描かれる信長・濃姫よりも、実像はかなり若い(信長は中村錦之助、濃姫は香川京子。そんなことを書いているこちらの年がわかるというものである)。「信長の正室でありながら、その後の濃姫の動向は不明な部分が多い。」(27ページ) 濃姫ばかりではない。徳川家康の正室の築山殿についても本名はわからない。信長、家康に比べると、良質な史料があまり残されていないはずの豊臣秀吉の正室高台院についてはその本名がわかっているというのは、ご本人の実力のしからしむるところかもしれない。

 美濃の斎藤氏との間の関係を築き、駿河の今川氏に対しても将軍や朝廷の力を借りて和睦を進め、本家筋の清州織田家(大和守家)とも平手政秀の尽力によって何とか和睦にこぎつけた。というところで、信秀が天文21年(1552)に42歳の若さで没してしまう。信長が家督を相続することになるはずだったが、簡単には決まらなかった。信秀が晩年に居城とした末森城を引き継いだのは、信長の実弟の信勝で、柴田勝家、佐久間盛重とその一族という家老衆がつけられた。信長の家老は林秀貞、平手政秀らであったから甲乙つけがたい。「分割相続されたような印象である。」(30ページ) 信秀の病死によって、尾張国内は戦乱状態に戻る。信長の尾張統一への道は遠い。

 しかも信長の傅役であった平手政秀が、信長との関係がぎくしゃくしたことから天文22年(1553)閏正月に自害し、おそらくはそのことを心配した信長の岳父である斎藤道三が信長との会見を思い立つ。「戦国大名同士の会見というのは極めて珍しい。そんな要請をする道三もやはり信長同様に変わり者だった。」(34ページ) 会見場に先に到着していた道三は、町はずれの小屋で信長の様子を盗み見ようとした。予想通り、信長は人目を引くような、常識はずれの服装でやって来た。それどころではなく、槍、弓や鉄砲で武装した家臣たちを引き連れていた。

 会見場所についた信長は、そこで尋常な姿に着替えた。『信長の家臣はこの変化を見て、わざとたわけたふりをしていたことに気づき、肝を消すほど驚いた。」(35ページ) 信長に対する悪評は服装や行儀が悪かったというだけのことで、武将としてのものではなかった。
 しかし、会見場所で対面ということになると、服装は尋常になったが、行動そのものは、人を食ったものであった。お互いに<知らぬ顔>をしていたが、家臣の堀田道空が「これぞ山城殿にて御座候」と道三を紹介すると、信長は「であるか」と人を食った対応をする。対面して、湯漬けを食べ、杯を交わしたのち、再会の約束をして別れたが、道三は苦虫を噛み潰したような顔で不機嫌であった。道三の側近である猪子高就が、評判通りの「たわけ」でしたなぁといってご機嫌を取ろうとすると、道三は自分の子どもが将来、あの「たわけ」の信長の家来になるだろうといって、それ以後、信長の悪口を言わなくなったという。この猪子高就はその後、信長の家臣となり、本能寺の変の際に信長とともに死んでいるので、牛一はおそらく、猪子本人からこの逸話を聞いたのであろうと和田さんは推測している。

 岳父の道三から高い評価を受けた信長であったが、その道三が、実子の義龍に背かれ、長良川の戦いで敗死してしまう。しかも義龍は織田一族の岩倉織田氏と同盟し、さらに信長の異母兄信広や、同母弟信勝とも連絡を取って信長を脅かすことになる。

 最初に述べたように、第1章の半ばまでしか紹介できず、信長が尾張を統一するのは次回のことになりそうである。あまり関係のない余談を一つ:30代のはじめの頃に、勤務校の図書館に山岡荘八の『徳川家康』がそろっていたので、休み時間を使ったり、借り出したりして全巻を読んだことを思い出す。山岡の『徳川家康』は最初の方が面白く、だんだんつまらなくなる。後に、鷲尾雨工の『若き日の徳川家康』を読んだら、家康の母の伝通院に対する評価とか、織田の人質になっていた時の信長との出会いとか、鷲尾が書いていることのかなりの部分を山岡が引き継いでいることが分かった。鷲尾雨工は第2回直木賞受賞作家で、直木三十五の友人だったことから、その受賞についてはとかくの評判があるが、すぐれた作家であったことは間違いなく、もっと評価されてもいいと思っている(これが言いたかった)。黒田如水について、吉川英治、松本清張、司馬遼太郎がそれぞれ長編小説を書いているが、鷲尾雨工も書いていて、そういうところにも彼の歴史小説家としての着眼の非凡さが現れていると思っているのである。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR