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森本公誠『東大寺のなりたち』(9)

8月23日(木)晴れ、午後になって雲が多くなってきた。依然として暑い。

 天平勝宝3年(751)6月には廬舎那仏像の螺髪が出来上がった。螺髪は、大仏の頭部の縮れてにな(螺)の殻のように見える髪のことであり、本体とは別につくられていたようである。そしてこの年のうちに大仏殿もほぼ完成した。明けて4年3月14日には廬舎那仏の鍍金(金メッキ)が始まった。その1週間後、3月21日付で聖武太上天皇からの勅書が高位の使者によって大仏開眼会で重要な役割を演じることになる僧侶たちに届けられた。その勅書の内容が『東大寺要録』に採録されている。

 第1は菩提僧正を開眼師に招請するもので、皇帝が菩提僧正にあてたという書式になっているが、実際には聖武太上天皇が発したものである。『続日本紀』には天皇(=孝謙天皇)が出席・主宰されたと記され、聖武太上天皇・光明皇太后についての記事はないそうである。また開眼会は4月8日に行われることになっていたが、8日には仏生会が行われ、開眼会は9日に行われた。準備の都合でこうなったのだろうと森本さんは推測しているが、妥当な意見である。〔現在でも釈尊の誕生を祝うのは4月8日のことであり(上座部仏教の国では別の日が祝われている)、いつごろから、どのようにして定着したのかは興味ある問題である。〕
 注目されるのは、招請の理由が太上天皇が病弱で開眼供養ができないため、僧正に代役を頼むことにしたということである(この時期、僧正が僧綱の最上位にいた)。ということは聖武太上天皇は願主として自ら、筆を執って改元するつもりであったと考えられる。のちに、鎌倉時代になって、治承寿永の争乱で大仏の首が落ちたのを元に戻し改めて開眼供養が行われ時に、後白河法皇が自ら仏前の足場に昇って、正倉院に保存されていた天平筆で開眼を行われたのは聖武天皇の意思を継ぐものであったとも考えられる。

 第二の勅書は隆尊律師を華厳経講讃の講師に招請するもので、さらに道璿律師を呪願師に、景静(けいじょう)禅師を都講に招じる勅書も出された。景静は行基の弟子なので、大仏造立の勧進としての行基の功績を考えての起用と思われる。勅書が届けられたはずだが(記録に残されていない)、華厳経講讃の読師には延福法師が招かれた。延福は金鍾山房時代からの東大寺の僧侶であった。開眼師らの招請に合わせて、諸寺それぞれの僧侶たちにも開眼会への出仕が要請された。各寺では名簿の作成に追われたことであろうと森本さんは書いているが、各寺の列席することになった僧侶たちもあわただしく準備に追われたことと思われる。

 聖武太上天皇と光明皇太后とは早くも4月4日に平城京を発って東大寺に行幸された。現在では同じなら市内に属しているし、近鉄奈良線にのると、復元された平城京の主な建物を見ることができるから、距離感がつかめるはずであるが、要するにそれほど遠くへだった距離ではないのに5日も前に来寺されたのは、開眼会の準備の様子を自ら確かめようというお気持であったからであろう。7日には貴族の諸家から仏前への造花の献納がなされた。大仏殿内の飾りつけも着々と進行した。
 4月8日にはすでに述べたように仏生会が、太上天皇・皇太后の隣席のもとに行われた。これについては正倉院文書によって確認できるそうである。この際の本尊は東大寺が所蔵する国宝の誕生釈迦仏立像であったと考えられている。大仏開眼の際に使われた多くの品々が正倉院によって現在なお伝えられているのは(言葉のもともとの意味に即して)有難いことである。
 9日の開眼会当日、孝謙天皇も文武百官を率いて東大寺に行幸、聖武太上天皇・光明皇太后と合流された。

 いよいよ開眼会が始まる。開眼の作法は大仏殿内の廬舎那仏像に施すのであるが、儀式のほとんどは大仏殿の前庭で行われる。儀式はもっぱら元日に内裏の大極殿で行われる朝賀の儀、つまり新年の儀式に準じて行われた。文武百官の五位以上の貴族は礼服を着し、六位以下は位階に相応する朝服を着て前庭左右に居並んだ。
 聖武・孝謙・光明の3人が東大堂布板殿という仮設の建物に着座された。さらに既に招請されていた高位の式僧たちが、それぞれ所定の位置に座った。その数1020人。

 次いで輿に乗り白い天蓋を捧げられた開眼師の菩提僧正が、左兵衛率(かみ)の正五位下賀茂角足(つのたり)と右中弁の従五位上阿倍嶋麻呂の引導によって東門から、やはり輿に乗り白い天蓋を捧げられた講師の隆尊律師が、参議の従四位上橘奈良麻呂と従四位上大伴古慈斐(こしび)の引導によって西門から、同じく輿に乗った読師の延福法師が、参議の従四位下藤原八束と従四位下石川麻呂の引導によって東門から入り、堂前の幄舎=仮設の建物に着座した。

 また呪願師の唐僧道璿律師、都講師の景静禅師、維那師らも所定の座に着いた。開眼師ほかの重役僧6人を加えるとこの開眼供養に集まった僧侶は1026人である。彼らを引導した役人たちの地位の高さ、(必ずしも芳しいものではない場合もあるが)歴史に残した知名度など、この開眼供養の同時代と、後世に示した意義を語るものである。

 さて、いよいよ開眼ということになるが、「四聖」のうち行基はすでに入寂し、聖武太上天皇は本来演じるべき主役の座を菩提僧正に譲って前庭でこの盛儀を見守られている。インドから来朝した菩提僧正が開眼会の主役を務め、唐僧道璿律師が呪願師となかなか国際的な配役で儀式は進行している。それはいいけれども、良弁少僧都はどこで何をしているのか、気になるところである。次回は、開眼会のさらに続きについてみていく。
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