FC2ブログ

『太平記』(224)

8月20日(月)曇り、ときどき小雨

 暦応元年(8月改元なので、この時点ではまだ建武5年が正しい、南朝延元3年、1338)5月、越前で勢力を挽回した新田義貞は、足利方の越前守護である斯波高経の黒丸城をはじめとする足羽七城を攻撃した。7月、越後勢を合わせてえますます協力になった新田軍のもとへ、吉野の朝廷から、京都南西の石清水八幡宮のある八幡山に陣を構える北畠顯信(親房の子、顕家の弟である)、新田義興(義貞の次男である)の軍勢に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は比叡山に拠点を置いて京都を攻略すべく延暦寺へ牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京都に発たせた。新田軍上洛の報せを受け、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、その際師直は包囲していた八幡山に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。斯波高経は、延暦寺の末寺であるが、藤島庄の年貢の貢納をめぐって争いが絶えなかった平泉寺を味方につけ、平泉寺の若い衆徒たちは足羽七城の中の三つの城に立てこもり、年長の僧たちは義貞調伏の祈禱を行った。そのためであろうか 、義貞は不思議な夢を見た。閏七月二日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。新田軍の計画では、3万余騎の軍勢を7手に分けて、足羽七城のそれぞれに向かい城を築き、徐々に攻略していくはずであったが、藤島城に立てこもっている平泉寺の衆徒たちが動揺している様子だったので、全軍が藤島城を攻撃した。しかし、衆徒たちも必死になって防戦したので、激しい戦闘が続いた。

 戦闘が続くうちに時間が立って、日は既に西山に沈もうとしていた。義貞は、東郷寺の前に控えて、味方の負傷者を見て回っていたが、藤島城の抵抗が予想以上に頑強で、新田方の軍勢がややもすると敵軍に追い立てられる様子なので、不安に駆られたのであろうか、馬に乗り、鎧を身につけて、わずか50騎ほどの軍勢を従えただけで、道を横切り、田を渡って、藤島城へと向かった。

 ちょうどそのとき、斯波高経の本拠である黒丸城から副将である細川出羽守、越中から応援に来ていた鹿草彦太郎の2人が、藤島城を攻めている寄せ手を追い払おうと、300余騎の軍勢を率いて、横縄手(他の間を横に通うあぜ道)を回って進んでいた。その黒丸城からの援軍と義貞の一行は田んぼの中でばったり出会った。細川方には馬に乗らず、楯をもった射手が多かったので、泥深い田に走り降りて、自分たちの前に携行用の持ち楯を並べて据え、矢じりを揃えて散々に射かけた。
 義貞の方では射手は一人もいないし、楯の一帖も持っていなかったので、前の方にいた兵たちが義貞の前を固めて自分たちが的になって大将を矢から防ごうとした。上野国の中野(群馬県邑楽郡邑楽町中野)の武士である中野藤左衛門が、大将に目で合図を送り、「千鈞の弩(ど)は、鼷鼠(けいそ)のために機を発せず」(第3分冊、378ページ、重い石弓でハツカネズミを撃つことはしない。大将は雑兵相手に戦うべきではない)といったのだが、義貞は聞き入れようとせず、「士率を死なせて私一人死を免れては、何の面目あって人に顔を向けることができよう」と、さらに敵の中に駆けいろうと、駿馬に鞭をあて前に進もうとする。

 義貞の乗馬は名だたる駿馬であったから、これまでは一丈や二丈(3~6メートル)の堀ならば簡単に飛び越えていたが、5筋も矢を射立てられてしまうとさすがに弱ったのであろうか、小さな溝ひとつを越えることができず、屏風を返したように岸の下に倒れてしまった。義貞はその左足が倒れた馬の下敷きになって、そこから起き上がろうとしていたところに白羽の矢が一筋、兜の正面の下、眉間の真ん中に刺さった。義貞は今はこれまでと思い、腰の刀を抜いて、自分で首を掻き落とし、田の泥の中に倒れ伏した。

 足利方で、宇都宮氏の一族である氏家光範(栃木県さくら市氏家に住んだ武士)がこれを見て、畔を伝って走り寄り、その首を取って、黒丸城へ馳せ帰る。新田方の結城上野守(福島県白河市に住んだ結城一族の武士らしい)、中野藤左衛門、金持(かなじ)太郎左衛門(鳥取県日野郡日野町金持=かもち出身の武士)の3騎が、馬から飛び降りて、義貞の死骸の前にひざまずいて、腹を描き切って重なり伏す。このほか、40余騎の兵たちが皆、堀溝の中に射落とされて、敵の一兵の命も奪うこともできずに犬死してしまった。

 義貞に従っていた3万余騎の軍勢は、みな勇猛な武士たちであったので、大将に代わって命を捨てようとしない者はいなかったが、小雨交じりの夕霧で、遠くの方を見ることができず、扇橋が見極められなかったので、大将が自分で戦って討ち死にしたことを知る由もなかったのは悲しいことであった。ただ遠くの方にいた郎等たちが、主人の馬に乗り換えて河合を目指して退却していったのを、数万の新田軍は遠くから見て、大将のあとに従おうと、戦況を見極めることもせずに、勝手に落ち延びていったのである。

 漢の高祖は、自ら淮南の黥布を征伐に向かったときに、 流れ矢にあたってその時に受けた傷がもとで、未央宮において崩じ、戦国時代の斉の宣王の太子は、自分自身で楚の短兵(短い武器を持つ雑兵)と戦って、戦死してしまった。このようなこともあるので、「蛟龍はは深淵の中に保つ。若し浅渚に遊ぶ則(とき)は、漁網釣者の愁へ有り」(第3分冊、380ページ、水中の龍は普段深淵の中におり、浅瀬に遊ぶと、網にかかったり釣り上げられたりする⇒すぐれた人物も、油断すると思わぬ失敗をする)という。
 義貞は、後醍醐天皇の手足となって働く家臣として、武将として高い地位についていたので、身を慎み、命を全うして、大事業での勲功を立てるべきであったのに、自分で進んでさほど重要ではない戦場に赴いて、身分の低い兵の矢によって命を奪われたことは、運が悪かったとはいうものの、感心できない振る舞いであった。

 南朝方の重鎮、というよりも主だった武将がほとんど戦死してしまった中で、ただ一人生き残っていた新田義貞が、不覚を取って死んでしまった。南朝にとってはこれ以上もない打撃であり、それは『太平記』の作者の記すとおりである。義貞は剛勇の武士であり、戦闘には巧みであったが、大局的な判断ができないということは何度も書いてきたが、とうとうそのために命を落としてしまったのは返す返すも残念なことである。この後、第21巻で脇屋義助の率いる新田軍が黒丸城を陥落させるので、余計、義貞の戦死は残念に思われる。前回も書いたが、執事であった船田義昌がすでに戦死しており、弟の脇屋義助とは別行動であったということも影響していたかもしれない。足利方から見ると、孤立した斯波高経が、泥の深い田に水を入れて騎馬が活躍しにくくしたり、道を自由に通行できなくしたり、溝を深く掘ったりして敵襲に備えていたことが、予期した以上の効果をあげたということになる。足利方では、首を取ったのが新田義貞だということはまだ分かっておらず、この後大騒ぎになるが、それはまた次回。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR