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山内譲『海賊の日本史』(5)

8月18日(土)晴れ、さすがに少し涼しくなってきた。

 第4章「戦国大名と海賊――西国と東国」続き
 前回は瀬戸内海を中心に活躍した村上氏(能島村上・来島村上・因島村上の三氏に分かれる)をはじめとする西国の海上勢力について考察したが、今回は東国の戦国大名がどのような水軍を保持していたかについてみていく。とくに注目されるのは、相模湾を中心として西は駿河湾の一部、東は江戸湾の大部分で活動した北条氏の水軍(海賊)、また武田氏が今川氏に取って代わって駿河の支配権を握った後に組織した水軍(海賊)である。ただ、著者である山内さんも断っているように、この書物は「比較的著名な海賊を個別に」(8ページ)取り上げて考察するものであり、北条水軍と戦った里見水軍とか、武田水軍に取って代わられた今川水軍については詳しいことは記されていない。

 北条氏は関東地方の海岸部に勢力をもっていたので、領域支配を有効にするためには、相応の海上勢力が必要であったと考えられる。小田原北条氏の三代目である氏康時代の1559(永禄2)年に作成された『小田原衆所領役帳』には、「浦賀定海賊」すなわち浦賀を拠点とする海賊として、愛洲(あいず)氏、高尾氏があげられている。そのほかに海賊役を命じられるものとして、小山氏、三崎十人衆などがいた。ここから、この時期には浦賀(現在の横須賀市)が海賊の拠点として中心的な役割を果たしていたことがわかる。浦賀は、浦賀水道をはさんで房総半島と最短距離の位置にあるから、そのころ北条氏と対立していた里見水軍の動きに対応する基地としては最適だったのである。

 上記『小田原衆所領役帳』に海賊と明記されているわけではないが、伊豆半島西岸に本拠をおく山本氏や梶原氏も水軍として活動していた。山本氏は伊豆半島西岸の田子城(静岡県西伊豆町)を本拠とする、伊豆出身の海賊である。山本氏の当初の主要な活動領域は、里見氏と競合する三浦半島沖や江戸湾であったが、駿河湾に武田の勢力が及ぶようになると、活動の拠点を田子浦に移すようになった。
 
 梶原氏は紀伊出身で、湯浅湾に面した広村(和歌山県広川町)がその本拠と伝えられている。山内さんは「おそらく熊野海賊として活動した一族の流れをくむのだろう」(160ページ)と書いているが、梶原と聞いてすぐに思い浮かべるのは源頼朝の重臣であった梶原景時であり、その先祖発祥の地は相模国鎌倉郡梶原である。またWikipediaによると、景時の三男景茂の子孫が讃岐に進出して海賊として活躍したという。このあたり、さらに調査研究が必要ではないかと思われる。
 梶原氏は、外来の傭兵的な海賊衆としての性格を強く持っていたが、当初は三浦三崎を拠点にして江戸湾の警備にあたっていた。その後、駿河湾で武田氏との緊張が高まってからは、山本氏同様に西伊豆に拠点を移し、長浜城(静岡県沼津市)を本拠にしたらしい。長浜城は、伊豆半島西岸の付け根にあたる内浦湾に面しており、狩野川河口近くに位置する武田方の三枚橋城(沼津市)のあたりを遠望することができる。

 他方、北条水軍と対立した武田氏の水軍は急ごしらえの水軍と言えるようなものであった。武田信玄が1568(永禄11)年に駿河に進出して以降、東の北条氏の水軍、西の徳川氏の動きに対抗するために短時間のうちに体制を整えたからである。このような場合、他国の既成の水軍を招致する方が手っ取り早く、実際に、武田氏の水軍の主力は、北条氏以上に他国出身の水軍に依存することが多かった。
 芝辻俊六の整理によると、武田水軍を構成したのは:
・今川氏の船奉行であった岡部忠兵衛(後に土屋豊前守貞綱と改める)や伊丹氏などのような旧今川水軍。
・武田氏の伊豆侵攻時に武田方に誘引されたらしい間宮氏のような旧北条水軍。
・伊勢湾で活動していたのを招致した小浜氏や向井氏。

 このような武田氏の他国から招致された水軍の代表として、志摩出身の小浜氏をあげることができる。武田信玄の時代に、旧今川水軍の一員であった岡部忠兵衛を通して、海賊として伊勢から駿河に移って武田の支配に属そうとした海賊が、志摩国の小領主であった小浜氏であり、小浜(三重県鳥羽市)を本拠としていたが、織田氏の威を借りて島に進出してきた九鬼氏に敗れて、武田氏に仕えることになったと考えられる。武田氏のもとで小浜氏は厚遇を受けたが、そのことに彼らへの期待の大きさが示されている。

 武田氏の水軍が充実してきたことにより、北条氏の水軍との間で緊張が高まり、両者は伊豆半島西岸で何度か対戦した。この時期、武田氏は1581年3月に徳川家康の攻勢によって遠江の高天神城を失うなど、苦境に陥っていたが、海上においては北条氏に対して優勢な立場を維持していたようである。

  なお、西国と東国だけでなく、両地域の中間地帯といってよい伊勢湾沿岸にも海上勢力は存在していた(既に小浜氏の例が出てきた)。その代表が九鬼氏である。九鬼氏は紀州九鬼(三重県尾鷲市)を本貫とする。九鬼は熊野灘に面した紀伊國東端の地で、土地柄、熊野神社の影響力の強いところである。九鬼氏は、南北朝時代から志摩国の鳥羽浦(鳥羽市)に進出し、その周辺で勢力を伸ばしたが、戦国期に九鬼嘉隆が現れて強大になった。彼は信長の子で、伊勢の支配者となった北畠(織田)信雄の権威を借りて、小浜氏を含む島衆をあるいは屈服させ、あるいは追放して志摩一国を支配するようになった。その後、九鬼氏は織田信長、豊臣秀吉に仕え、豊臣大名にのし上がり、豊臣水軍の主力として活動することになる。九鬼氏が戦国大名の水軍として頭角を現したことはたしかであるが、海賊とは言えないのではないかというのが山内さんの見解である。

 西国と東国の「海賊」の違いについての山内さんの考察は、次回に詳しく検討することにするが、東国の方が「水軍」的な性格が強く、なぜそうなったかと言えば、海上を往来する船舶の量が違ったからではないかと思われる。
 後、今回取り上げた個所で気づいた点をいくつか書き記しておく。

 浦賀は、その後も長く江戸湾(→東京湾)の海上交通の要衝であり続けたのはあらためて言うまでもない。梶原氏についてはすでに書いたが、この後でもまた登場する。土屋貞綱は長篠の戦で戦死し、その養子の昌綱も信長・家康の甲斐侵攻の際に戦死したが、そのまた子孫は徳川時代に大名・旗本として存続したようである。間宮氏は宇多源氏佐々木分流の一族でいろいろな流れがあるようであるが、後北条氏が没落した後は、徳川幕府の旗本となった一家がある。横浜市内には間宮姓の人が多いのは、このあたりのことと関係するようである。なお、間宮林蔵は常陸の出身であるが、やはりこの一族から出ている。小浜氏、向井氏もこの後登場するので、ここでは省く。九鬼氏もこの後、また出てくるが、(山内さんが触れていないので)一つだけ書いておきたいのは、私の好きな哲学者の一人である九鬼周造がこの一族の出身だということである。私は三浦半島とはなじみ深い環境で育ったので、北条水軍についてはもっと詳しく知りたいと思う。
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