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ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(11)

8月17日(金)晴れ、依然として暑い。

 インドのヒンズー教寺院に安置された月天の像の額に飾られていた黄色いダイヤモンド=月長石は、人間の世が続く限りかわるがわる3人のブラーフマンによって見守り続けられ、この宝石に手を触れたものには、本人だけでなくその一族にまで災いが及ぶであろうと言い伝えられてきた。月長石はその後数奇な運命を経て、ヨークシャーのヴェリンダー家の令嬢レイチェルの手に彼女の18歳の誕生祝として贈られたが、その後、こつ然として姿を消し、その行方は分からないまま殺人事件まで起きてしまった。
 事件から2年たった1850年5月に当事者の1人であるフランクリン・ブレークは事件に関する証言をまとめて真相を明らかにしようと考え、ある家の記録から月長石が1799年5月の英軍によるインドのセリンガパタム襲撃の際に、英軍の将校であるジョン・ハーンカスルの手に入った経緯を見つけ出した。そしてそのハーンカスルの手からレイチェルのもとに月長石が届けられ、消失した経緯を手記にまとめるように、ヴェリンダー卿夫人の執事であるガブリエル・ベタレッジに依頼した。
 長くヨーロッパで暮らしていたフランクリンが、ヨークシャーのヴェリンダー邸を訪問することがわかったのは1848年5月24日、来訪の前日である。当日、フランクリンの到着以前に、3人の旅回りのインド人の手品師がヴェリンダー邸を訪問し、芸を披露したいというが、主人の留守を理由にベタレッジは断る。その後、彼らの様子を見ていたベタレッジの娘のペネロープは、彼らがフランクリンに対してよからぬことを企んでいるらしいと告げにやってくる。召使の中の変わり種である下働きの女中のロザンナ・スピアマンを探して海岸に出たベタレッジは、彼女と話しているときに、思いがけずフランクリンがやって来たのに出会い、フランクリンがジョン・ハーンカスルの遺言を履行すべく月長石をレイチェルのもとに届けに来たことを告げる。インド人たちの不審な行動を知り、またベタレッジがジョン・ハーンカスルに対して抱いている不信の気持ちを察して、フランクリンはベタレッジに、ジョン・ハーンカスルがどのような人物であったのか知る限り説明してほしいという。

 ハーンカスル家には5人の子どもがいた(これは物語のあらすじをわかりやすく紹介するために、先走りして紹介しておいたことである)。上の2人が男子、下の3人が女子であった。
Of the two sons, the eldest, Arthur, inherited the title and estates.
中村訳では、「二人の男のお子さまのうち、上のアーサーさまが家の称号と財産をおつぎになった。」(53ページ) このアーサーは、なぜかこの後の物語には登場しない。一族が集まったはずのレイチェルの誕生祝にも、アーサーあるいは(レイチェルから見ると従兄弟になる)その子どもたちは出席していない。
The second, the Honourable John, got a fine fortune left him by a relative, and went into the army.
中村訳では「下のジョンさまは、ある親戚からかなりの遺産をゆずられ、軍隊におはいりになった。」(同上)
 以上から推測できることを列挙していくと:
ハーンカスル家は伯爵以下(伯爵・子爵・男爵)の貴族である。これはベタレッジがヴェリンダー夫人の父親をthe old lordと呼んでいること、ジョンがthe Honourableと呼ばれていることからわかる。したがって、the titleはこの場合、爵位と訳したほうがいいようである。
the estate (財産権、不動産権)は限嗣相続でアーサーに渡った。ハーンカスル家は男系相続で財産権を継承しているようである。(シャーロック・ホームズを読むとわかるが、英国では男系相続が一般的だが、まれに女系相続の例がある。) armyは厳密には「陸軍」であるが、そのことについてはこの後で説明があるので、こだわる必要はないだろう。アーサーに子どもがいないまま死ぬと、爵位も財産権もジョンのものになるはずであるが、そうなっていないということは、ハーンカスル家は無事後継者を得て存続しているということになる。

 さてジョンは、ハーンカスル家の名折れになるような存在であった。
He was, I honestly believe, one of the greatest blackguards that ever lived.
中村訳では「ジョンさまという方は、それはそれはやくざな方だったと、私は心から信じている。」(54ページ) blackguardは「不良、ごろつき、悪党」という意味である。逐語的に訳せば、「彼は、私が正直に思っているところでは、これまで生きていた最大の悪党の一人だった。」ということになろうか。〔特にベタレッジは理由を示していないが、そう判断する根拠となるような悪行は数々あって、口に出すのもはばかられるということであろう。〕
 彼はthe Guards(近衛隊)に入るが、22歳になる以前にやめて、今度はインドに出かける。そしてセリンガパタムの攻撃に参加した。
Soon afterwards he changed into another regiment, and in course of time, changed again into a third. In the third he got his last step as lieftenant-colonel, and, getting that, got also a sunstroke, and came home to England.
中村訳では、「その後ですぐ別の隊にうつり、やがて、さらに別の隊にかわられた、そこで(中佐まで務めあげた途端、日射病にかかり、イギリスに帰国なさった。」(54ページ)となっている。中村訳は少し荒っぽいので、例によって逐語的に訳してみれば、「そのまもなくあとで彼は別の連隊に移り、時が経つ中で、彼はまたも3番目の連隊に移った。3番目の連隊で彼は中佐まで勤め上げた。そしてそれを得るのとともに、日射病にかかり、イングランドへと戻ってきた。」 
 問題が2つある:その第一は、彼が大佐と呼ばれていることで、中佐どまりであっても称号としては大佐と呼ばれるのか、それとも帰国してから名目的に大佐に昇進したのかのどちらかであろう。サッカレーの『虚栄の市』の主要登場人物であるウィリアム・ドビンはインドで軍人として働いて大佐まで昇進し、勲章をもらうが、ジョン・ハーンカスルについてはそういう記述はないから、優れた軍人としての業績は上げていないということになる。
 もう一つは、日射病(現在は熱中症というが)になったくらいで、退役するのかということである。

 帰国した大佐は、一族全ての者がつきあいを拒否するような人間になっていた。その排斥の先頭に立っていたのが、当時すでにヴェリンダー卿夫人になっていた末の妹である。彼女は兄である大佐を自分の家には一切出入りさせないと宣言していた。そのようにつまはじきされる理由がいくつもあったのだが、ここで問題になるのは、ダイヤモンドについて、彼が認めたがらないような手段に訴えて手に入れたということである。物語全体を通じて、彼がどのような手段でダイヤモンドを手に入れたかは、読者の創造にゆだねられている。
 ダイヤモンド―月長石を彼は他人に売ろうとしないどころか、見せようともしなかった。この宝石のために軍といざこざを起こすのを恐れていたのだ(自分の軍律違反が明るみに出る恐れがある)という説もあり、持っていることが明らかになれば、命を危険にさらすことになるという説もあった。
 実際、大佐はインドで2度までも生命を脅かされた。それが月長石に起因しているものとほかの人々は信じていた。帰国後、だれからも爪はじきされるようになったのも、月長石のせいだと信じられていた。男たちは、彼をクラブに入会させようとしなかったし、女たちは、彼からの求婚を拒絶したのであった。「友達や親戚のものたちは、道で会っても知らぬ顔をした。」(55ページ)
 クラブというのはある共通点(経歴とか趣味とか)をもつ人々が作る排他的な(つまりその共通点をもたないひとには門戸を開かない)組織であって、英国には今でもたくさん存在するようで、人名録などを見ると、その人がどんなクラブに入っているかがわかる。

 世間から全く孤立しても、大佐は屈することなく、インドでも英国でも、ダイヤモンドを手放さなかった。どんなことも、世間のうわさも全く無視し続けた。彼の周りにはいろいろとよくない噂が建てられた。アヘンを飲みふけっている(作者であるウィルキー・コリンズ自身がかなりのアヘン中毒者であった)、古い書物を集めているとか、妙な化学実験をやっているとか、ロンドンの最下層の貧民窟で最下等の貧民たちにまじって酒をあおって騒いでいるとかいうたぐいのうわさである。
 ベタレッジは1846年の6月にロンドンで、一度だけジョン・ハーンカスルに会ったことがあった。彼の死ぬ1年半前のことである。ロンドンのヴェリンダー家の家で(この時代、英国の貴族や地主は自分たちの土地と、ロンドンにそれぞれ家をもっていた)レイチェルの16歳の誕生祝いが開かれているときに、ベタレッジはfootmanから取次ぎを頼むこと紳士が来ているとのメッセージを受け取る。(footmanをas中村は「馬丁」と訳しているが、footmanは「馬車・ドア・食卓に侍る制服を着た召使」であって、馬丁=馬の口取りではない。この時期にはまだベタレッジは執事ではなくて、土地差配人だったはずであるが、難しいことは言わないことにしよう。) 
Going up into the hall, there I found the Colonel, wasted, and worn, and old, and shabby, and as wild and as wicked as ever.
中村訳では「玄関に出てみると、老いこんでみすぼらしくやせ衰えた大佐が、昔ながらの陰険野卑な姿で立っていた。」となっている。wastedは「衰弱した、やつれた」、wornは「(疲れ・心配で)やつれた」、shabbyは「みすぼらしい;卑しい」、as everは「相変わらず;例の通り」ということで、ベタレッジはそれまで大佐に会ったことはなかったのだから、「昔ながらの」とは言えないはずである。

 大佐はそれまで何度か、妹に対して仲直りをしたいという手紙を出していたのだが、ヴェリンダー卿夫人はそれを拒否してきた。そのときも、依然としてハーンカスル家の激しい気質を保っていた卿夫人は、ベタレッジに大佐を追い返すように言う。ベタレッジは卿夫人の指示をそのまま実行はせずに、丁寧にお引き取りを願ったが、案に相違して大佐はおとなしく引き下がったのである。

 大佐と一族、特にヴェリンダー卿夫人との関係についてはおおよそのことが語られた。このような関係であるにもかかわらず、なぜ大佐はレイチェルに誕生祝として月長石を送ろうとしたのであろうか。それはまた次回。 
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