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森本公誠『東大寺のなりたち』(8)

8月16日(木)晴れたり曇ったり、気のせいか少し涼しくなってきた。

 「大仏造立ならびに大仏殿造営の工事が順調に進み、この分では、聖武太上天皇が望んでいる仏教伝来200年を期した天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会も可能だ。今や派遣すべき施設を任命して準備を整え、このことを近隣諸国に知らせてはどうか。そのような議論が朝廷内に起こったとしても不思議ではない。
 むろん聖武太上天皇に異論があろうはずはない。とりわけ新羅については、彼らも重視する『華厳経』の採用とその教主である廬舎那仏造立を彼らに実見させて、日本の尊厳的立場を保持しつつ新羅との極度に緊張した関係を平和裏に解決する、そのような願いを抱いてきた。そのうえ、仏教国にふさわしい戒師を唐から招請する件もまだ実現していない。天皇はそのような思いに駆られて、積極的に議論に加わったに違いない。」(115ページ)
 このあたり、著者が想像力を働かせて、推測で書いていると思われる部分が多い。大仏関係の工事が順調に進捗していたこと、日本と新羅の関係があまり良くなかったこと、新羅の仏教が華厳経を重視するものであったことは裏付けがある。それ以外については、たぶんこんな様子だったのだろうと想像されているだけであることを読み落とすべきではない。戒師の招聘をめぐっては波乱が生じたことはこの後論じられることになる。

 天平勝宝2年9月24日、遣唐使任命の人事が発表された。大使となったのは藤原氏北家の房前の第四子で従四位下・参議であった藤原清河、副使は従五位下大伴古麻呂、判官は大伴三笠ほか4名、主典も4名であった。この陣容では経験不足と心配されたのか、11月7日、筑前守に左遷されていた従四位上吉備真備が新たに遣唐副使に任命された。副使の方が大使よりも位階が上であることを森本さんは気にしているが、職分としては参議の清河の方が筑前守の真備よりも上である。唐における清河の活動について森本さんは書いていないが、彼は大いにその存在感を示しただけでなく、唐の朝廷に仕えることになり、ついに日本に戻ることはなかった。もし戻ってきたら、日本の歴史は変わっていたかもしれない…と思うのは私だけであろうか。(もっとも海外で活躍したけれども、日本ではダメだったというスポーツ選手の例もある。)

 遣唐使の出発は4艘の遣唐船の建造や艤装に時間がかかり、天平勝宝4年閏3月のことになった。一方、遣新羅使については天平勝宝4年正月25日に、正7位下山口人麻呂が任命された。それまで10年ばかりは新羅との間に正式な交流はなく、関係は冷え切ったままであった。使節がいつ出発したかは不明であるが、新羅側の反応は早かった。その件については、またあとで触れる。

 いよいよ大仏開眼に向けて具体的な準備が始まった。まず、僧による僧尼統制の機関である僧綱の整備が取り組まれた。僧綱は治部省玄蕃寮に属し、僧正、僧都、律師によって構成されている。天平勝宝3年4月22日に、孝謙天皇の詔により、菩提法師(菩提僊那)が僧正、良弁法師が少僧都に、道璿法師と隆尊法師が律師に任命された。〔神道は神祇官に属していたのだから、両者の扱いはかなり異なることになる。なお、玄蕃の玄は僧侶のこと、蕃は外国からの渡来者を指す。〕

 菩提僊那は南インド出身の僧ボーディセーナのこと。菩提、あるいは婆羅門僧正とも呼ばれる。婆羅門(ブラーフマナ)の出自ではあったが、仏教徒となりインドで修行を積むうち、かつてパルティアの王子であった安世高や中央アジアの支婁迦讖らが中国に行って仏典を漢訳し、仏法を広めたことに感激し、自らも中央アジアを経由して中国に渡っていた。そこへ天平5年(733)に日本を出発した遣唐使一行とめぐり合い、大使である多治比広成・留学僧理鏡らから伝戎師僧としての招請を受けて今度は日本にやって来た。彼の死後に弟子の修栄が作成した『南天竺婆羅門僧正碑文』によると、菩提はよく『華厳経』を読誦して心の要としたという。

 私の小学校6年の時の担任の先生が、曹洞宗のお坊さんで、大仏開眼の時に、インドから菩提僊那というお坊さんがやって来たと教えてくださったが、これは誤りで、彼は、後に述べるように久しく前 に来日していた。だから先生から教えていただいたことは正確な歴史的事実ではないのだが、菩提僊那という名前を覚えたことは有意義であった。前回にも書いたが、『大仏造立』のモザイク・スクリーンのスライドを製作した際に、東大寺の好意で「四聖の御影」を撮影させていただいた。四聖というのは東大寺では、本願の聖武天皇、開基の良弁、勧進の行基、導師の菩提僊那を言うが、そのとき東大寺の坊さんが婆羅門僧正と言われたのが記憶に残った。そういう言い方もするのかと思ったということである。〔その後、東大寺関係の展覧会を見て知ったことだが、「四聖の御影」というのは複数存在するのである。〕

 道譫は現在の河南省許昌市出身。出家後はもっぱら『華厳経』浄行品(じょうぎょうぼん)に説くままに日々の浄行に務め、洛陽の大福先寺に住んだが、遣唐使に従って入唐した留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に出会い、その懇請を受け入れて来日した。菩提僊那と道譫は、今のベトナムから日本に来ていた林邑僧仏哲とともに天平8年(736)8月に来日し、菩提は大安寺の中院に、道譫は同じく西唐院に止住した。したがって、天平勝宝3年には彼らはすでに在日15年に及んでいた。
 栄叡と普照は井上靖の小説『天平の甍』の主人公となっている。この小説は後に熊井啓監督によって映画化され、昭和55年(1980)に公開された。普照を中村嘉葎雄、永叡を大門正明が演じていた。林邑はベトナムの中南部にあったチャンパ王国の中国側からの呼び名で、古代の日本で演じられた舞楽の中に林邑楽があるが、その起源・伝来をめぐっては不明な点が多い。一説には仏哲が日本に伝えたとされる。

 良弁は義淵の弟子で、東大寺の前身である金鍾山房に入り、天平12年には大安寺の審祥を招いて「華厳経」講説を催し、翌年に国分寺建立の勅が出て金鍾寺が大倭国金光明寺となると、その中心的な存在となって活躍、このころすでに大徳の尊号で呼ばれていた。さらに天平17年の平常遷都後、金光明寺が廬舎那仏造立再開地となって、大仏の造立と東大寺の造営に深くかかわった。これらのことが評価されてか、律師を経ることなく少僧都に抜擢された。

 隆尊は元興寺の僧で、『華厳経』の勉学に励み、その名声は大きく、聖武天皇によって抜擢されたものと考えられる。ここで新たに登用された僧侶たちは、それぞれ『華厳経』にゆかりがあり、大仏の開眼の際に重要な役割を果たすことになる。

 大仏造立は宗教行事であるが、国家的というよりも国際的な意義をもつものととらえられていたようである。私が『大仏造立』のスライド製作に携わっていた時期は、ちょうど1970年の大阪万博の準備期間と重なっており、その点で符合するものがあったが、その当時は仕事に追われていて、そんな自覚を持つどころではなかった。
 さて、いよいよ大仏開眼の盛儀が近づいてきた。次回にその詳細を語ることができるはずである。
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