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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(1‐3)

8月14日(火)晴れ、雲も多いが、それでも暑い。

〔第1歌のこれまでの内容〕
 人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき
私は正しき道の失われた
暗い森の中をさまよっていた。
(1-3行、11ページ)
 地獄篇34歌、煉獄篇33歌、天国篇33歌、合計100歌からなる『神曲』の中で、この第1歌は全体の序歌の役割を占めている。通常この3行は、70年の人生の半ば=35歳を迎えたダンテが、暗い森の中にさ迷いこんだと理解されているが、ここではアダムが創造されてから6500年にあたる西暦1300年の出来事を描いていると解釈されている。
 森を抜け出したところに、日の当たる丘を見つけたダンテは、その丘に登ろうとするが、突然現れた豹(嫉妬の象徴である)、続いて獅子(高慢の象徴)、さらに雌狼(貪欲の象徴)によって歩みを遮られ、暗い森の中へ通し戻される。
 低きところ〔暗い森〕に落ちて行っていたそのとき
長き沈黙のためおぼろげに見える人が
忽然と私の目の前に現われた。
(61‐63行、14ページ)
 ダンテはその人間とも影(霊)とも見分けのつかない姿に対して、救いを求める。

 彼は答えた。「私は人間ではないが、かつて人間だった。
私の両親はロンバルディーアの出で、
ともに祖国はマントヴァであった。
 私はユーリウス(・カエサル)の御代に、ずいぶんおくれてではあったが生まれ、
賢帝アウグストゥスの御代にローマに生きたが、
嘘と偽りの神々を奉じる時代であった。
 詩人だった私は誇り高きイーリオン(の都)が焼け落ちたあと
トロイアからやって来たアンキーセースの
正しき息子〔アエネーアース〕を歌った。
(67‐75行、14‐15ページ)
 このように、彼の前に姿をあらわした存在は、自分が過去=ローマ共和制末から 帝政の開始の時期に生きていた人物であり、(キリスト教から見ての話であるが)異教を信じ、詩人としてトロイアからイタリア半島にやってきてラティーウムにローマのもととなる都市を建設したアエネーアースを主人公とする叙事詩を作り上げたと自己紹介する。まだはっきりその名を名乗ってはいないが、ダンテの前に現れた姿がローマ文学黄金時代の最大の詩人であるウェルギリウスであることが明らかになる。この自己紹介を通じて浮かび上がってくるのは、ローマ帝国の政治と文学の偉大さに対するダンテの尊崇の念と、にもかかわらず、そこでは異教が支配していたことへの非難とである。ダンテが、ローマにおける共和制についてあまり高く評価していないらしいことは、ウェルギリウスの語り方からもわかる。フィレンツェの政治にかかわる中で、強力なリーダーによる政治(善政)をダンテが渇望していたことが推測できる。そして、そのような尊崇と非難の対象であるローマの頂点に立つ人物の一人が、ウェルギリウスなのである。その彼が、長い沈黙を破って死後の世界からここに姿をあらわしたのはなぜか、それはしだいに明らかになる。 

 そしてウェルギリウスの霊は、ダンテに向かい、次のように問う。
 だが、どうして、お前はあの苦悶〔暗い森〕の中へ
舞い戻ろうとしているのか。どうして、すべての喜びの源であり
理由である、喜ばしい山に登ろうとしないのか」
(76‐78行、15ページ) 喜ばしい山というのは、ダンテが登ろうとした日に照らされた丘ではなく、『煉獄篇』で歌われる煉獄山、その山を登ることによって罪が清められる、頂上には地上楽園が存在する山である。

 ダンテは、ウェルギリウスに抱いている尊敬の念と、獣の攻撃から自分の身を守り、この暗い森から脱出したいという思いを打ち明ける。すると、ウェルギリウスは思いがけないことを答える。
 「おまえは別の道を旅する必要がある」
私が涙を流すのを見て彼は答えた。
「この野生の地から生きて出るには。
 なぜならおまえがどんなに叫んだとてあの獣は
道を塞いで誰一人通さない。それどころか、
散々邪魔だてした挙句、最後は殺してしまうからだ。
(91‐96行、15‐16ページ)

 そしてダンテがこれから旅することになる道のりを語る。
 それで、おまえにとって最善のことを慮って言うが、
私のあとに従うがよい、私がおまえを導いてやろう。
そしてお前をここから救い出し、永劫の地〔地獄と煉獄〕へと
 連れ行こう。・・・
(112‐115行、16‐17ページ)

 異教の詩人であったウェルギリウスに天国に足を踏み入れることは許されず、天国では「私よりふさわしいたましい」(=ベアトリーチェ)が彼を導くことになるという。
 そこで私は彼に言った。「詩人よ、あなたがお知りになることのなかった、
かの神〔キリスト教の神〕にかけてお願いします。
どうか私がこの悪や、さらなる悪から逃れることができますよう、
 今おっしゃったところに私を連れて行ってください。
そして聖ペトロの門や、お話になった
かくも悲嘆にくれる(地獄の)人たちをお見せください」
すると彼は歩きはじめ、私はあとに従った。
(130‐136行、17‐18ページ)
 「聖ペトロの門」は煉獄篇第9歌に登場する「煉獄の門」を指す。この門が救いの入り口であり、同時に天国の門を兼ねている。また、ウェルギリウスのあとに付き従うダンテという組み合わせは、いくつもの寓意が重ねられていると藤谷さんは注記している。それは、理性や枢要徳を先頭として進む<感情>であり、古典詩人を範として従う<現代詩人>であり、冥界降りの先達に従う<後継者>でもあるという。
 ちょうど、岩波文庫の山川丙三郎による訳を手に入れたところなので、対照のため、最後の7行(130行―136行)を山川訳から引用しておこう:
我彼に、詩人よ、汝のしらざりし神によりてわれ汝に請ふ、この禍ひとこれより大なる禍ひとを免れんため
ねがはくは我を今汝の告げし處に導き、聖ピエートロの門と汝謂ふ所の幸なき者等をみるをえしめよ
このとき彼進み、我はその後方(うしろ)に従へり
(岩波文庫版、上巻、17‐18ページ) 須賀=藤谷訳が、固有名詞について日本人になじんだ原語に近い表記を選んでいるのに対し、山川がイタリア語表記に固執しているのが印象的である。全体として、山川訳の格調が高いことはわかるが、文章が古めかしすぎて、ついていけないというのは多くの人々が言うとおりである。それにしても、ダンテが韻文で書いている『神曲』を日本語の韻文に移すというのはかなり無謀な企てなのであろうか。

 かくして、ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄と煉獄の旅に向かうことになる。その先には天国の旅が待っているはずであるが、それは彼がどのようにこの2つの世界を旅し、どのように自分を変えていくかにかかっているのである。
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