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『太平記』(223)

8月13日(月)曇り、暑い。夕方になって雷鳴。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、越前で勢力を蓄えた新田義貞は、足利方の越前守護である斯波高経を攻めた。7月、越後勢を合わせてますます強大になった新田軍に、京都の南の八幡山に進出した宮方の北畠顯信、新田義興の軍勢に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京へ発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、その際、師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の知らせを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。
 斯波高経は足羽川流域に7つの城(足羽七城)を築き防備を固めていたが、平泉寺と延暦寺の所領争いを利用して平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不思議な夢を見た。側近の者は吉夢であると占ったが、斎藤入道道猷は中国の三国時代の諸葛孔明・司馬仲達の故事を持ち出して、「あながちに感心せず」といった。

 閏7月2日は、足羽城に攻め寄せようと、かねてから連絡が行き渡っていたので、越前中の宮方の軍勢が、河合庄(九頭竜川と日野川が合流する地点の北にあった荘園=福井市川合鷲塚町)に参集した。集まったのは雲霞のごとき大軍である。
 義貞は、赤地の錦の鎧直垂に、脇楯(鎧の胴の右脇の合わせ目の隙間にあてて塞ぐ防具)だけを身につけて、遠侍(主殿から離れたところにある侍の詰め所)の中に座り、その左の脇に脇屋義助が紺地の錦の直垂に、小具足だけを身につけて座っている。このほか、新田一族の山名、里見、鳥山、一井、細屋、大井田、三浦一族の中条、足利一族の桃井の武将たち30余人は、それぞれ思い思いの鎧、小具足を華美に着こなして、東西に列に分かれて列席していた。

 外様の大名は宇都宮泰藤、信濃の禰津・風間、加賀の敷地・上木、越前の瓜生・河島・伊自良、武蔵の金子・江戸、上野の太田など、総勢で3万余騎、旗竿をかたむけかたむけ、膝を曲げて、手をついて、殿上と庭先にかしこまっていた。そこへ新田の家臣である由良と船田に大幕を掲げさせて、大将である義貞がはるかに謁見し、会釈した様子は、そのおごそかないでたち、堂々たる礼とともに、まことに足利尊氏の天下を奪い取る人は、必ず義貞であろうと思わない者はいないほどのものであった。 

 その日の軍奉行を務めるのは、加賀の武士である上木平九郎家光で、人夫6千余人に、まくり楯(携帯用の楯=持楯)、掻楯(かいだて、垣のように連ねる楯)、埋め草(城の堀を埋める草)、塀柱(城柵に用いる柱)、勢櫓(せいろ=井楼、材木を井桁に組んで作る櫓)の材料と組み立てるための道具をもたせてやってきたので、総大将である義貞は、注文で鎧の上帯を締めさせた。そして愛馬である水練栗毛(水練には泳ぎが上手であるという意味がある。栗毛は赤茶色の毛色である)という肩までの高さが5尺3寸(≒160センチ、標準は4尺≒120センチ)という名馬にのろうとしたら、この馬が急に暴れ出して、舎人(馬の世話をする従者)2人の胸を踏んで半死半生にするなど大騒ぎになった。

 従っている軍勢は不思議なこともあるものだなあと思っていたが、行軍に移り、旗持ちが進んで足羽川を渡っていると、その乗馬が川の中で臥せてしまい、旗持ちが(おそらくは旗も)ずぶぬれになった。
 このように様々な変異が、凶兆を示していたのだけれども、既に戦いへと出発してしまった以上は、おめおめと引き返すべきではないと思って、武士らしく人並みに行軍を続けていたが、心に不安を抱かない者はいなかった。

 東郷寺の前で3万余騎の兵を7手に分けて、七城のそれぞれに攻め寄せることにし、それぞれの城の向かいに城をつくることにした。かねてからの手配では、前方の兵は敵と向かい合って合戦をし、後ろの足軽たちはやぐらを組み立て、兵を塗り、向かい城を建設したら、ゆっくりと敵の城を攻め落とすべしと命令がなされていたが、七城の中で平泉寺の衆徒(僧兵)たちが籠っていた藤島城(福井市藤島町にあった)がひどく動揺して浮足立った様子であり、今にも陥落しそうに見えたので、数万の寄せ手、これに勢いづいて、まず向かい城を建てるという計画を後回しにして、藤島城の塀に取りつき、堀に使って、喚き叫びながら攻め戦う。

 藤島城にこもっていた衆徒たちもはじめは逃げる気配を見せていたが、周囲を敵に包囲されて逃げることは難しいということを思い知ったのであろうか、とにかく必死に防御に取り組む。城柵の前まで寄せた官軍が、堀を渡って櫓の下に潜り込むと、衆徒たちは上から丸太を突き落とす。衆徒たちが、橋を渡って反撃しようとすると宮方は太刀で一斉に切り付けて防ぐ。

 こうして簡単に決着すると思われた攻防戦は膠着状態になってしまった。こういうことであれば、初めに決めた手はず通りに戦っていたほうがよかったのかもしれない。また新田勢では軍奉行を務めるべき船田義昌が戦死していて、外様の上木家光が務めているというのがどうも頼りない。大軍を擁しているとはいえ、統制がおぼつかないのである。呉座勇一さんの『応仁の乱』の中に室町時代における戦闘の具体的な姿が論じられているが、この足羽七城の攻防戦などを読んでいると、応仁の乱の特色となっている陣地戦のひな型のようなものが現れているようにも思う。
 東郷寺という寺は平泉寺の末寺のように思われるが、現存せず詳細は分からないようである。義貞は利根川の中流域を本拠としている武将であるから、その乗馬も泳ぎは得意だったはずである。九頭竜川とその支流である日野川、足羽川はかなり水量の多い川で、この物語の舞台となっているのは下流の水量のさらに多い一帯である。そのことも注意されたい。さて、藤島城の攻防戦はどのように推移するのであろうか。それはまた次回。 
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