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山内譲『海賊の日本史』(4)

8月11日(土)晴れ、暑い。

 今回は、第4章「戦国大名と海賊――西国と東国」を取り上げる。

 「戦国時代になると、瀬戸内海を中心に海賊の軍事面での活動が活発になる。」(140ページ) これは一方では一部の海賊集団が次第その勢力を拡大し、広い海域で仕事をぬかりなく行うために武装を強化していったという海賊側の事情があるが、それ以上に重要なのは、戦国大名が出現し、強大化する中で、海上の軍事力を必要とする者が現れ、その中には自力で水軍を養成したが、多くの場合海賊たちを自分の中に取り込もうとしたという外部環境の変化であった。

 瀬戸内海の場合、その中でもっともその存在を注目されたのが、芸予諸島の村上一族である。
 戦国時代になって、海賊の活動が活発になるのは瀬戸内海や西国だけでなく、東国でも同様であった。とくに領国の中に相模湾、江戸湾が取り込まれていて海とのかかわりが深い北条氏は、水軍力の整備に熱心であった。また、今川氏を逐って駿河を手に入れたのちの武田氏も、北条氏に対抗して駿河湾で活動する水軍を必要とするようになった。
 「戦国大名や戦国期の社会のあり方が東国と西国で大きく異なっていることはよく知られているが、海賊のあり方についても同様である。」(141ページ) そこでここでは、東国と西国の海賊を比較しながら、この時代の東国、西国社会の違いについても考えてみるという。

 西国の方が海の占める部分が大きいので、海賊の影響力も大きかったと思われるが、その中で代表的な存在は瀬戸内海中央具の芸予諸島を拠点として活動した村上氏である。村上氏は、俗に三島村上氏と呼ばれるように、能島(のしま)村上・来島(くるしま)村上・因島村上の三家から構成されていた。三家の系譜関係は明らかではないが、同族意識をもちながらも、連携や離反を繰り返していたことは明らかである。
 村上さん家の成立期の姿は伝承に覆われていて実像はつかみにくい。記録に残されたかぎりでは能島村上氏の活動は14世紀の半ばごろにさかのぼり、もっとも古いが、因島・来島両村上氏もこの時期までには活動を始めていたのではないかと山内さんは推測している。

 三村上氏の活動が最も活発に展開されるのは、戦国代になってからである。
 能島村上氏は、伊予大島と伯方島(はかたじま)の間の狭い水路上に浮かぶ能島(愛媛県今治市)を本拠とした一族であり、海上交通の要路をにらむ位置に勢力を張っていただけでなく、芸予諸島以外にも拠点を広げていった。能島村上氏は、村上三氏の中では最も独立性の強い一族で、どの戦国大名とも一定の距離を保ち、独自の行動をとることが多かった。能島村上氏が交渉をもった戦国大名は、伊予の河野氏、畿内の細川氏、阿波の三好氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏など様々だが、最も関係が深かったのは毛利氏やその一族小早川氏であった。
 能島村上氏の全盛時代を現出させたのは武吉子元吉・景親である。武吉は毛利氏と敵対して危機に陥った時期もあったが、その後関係を修復し、毛利氏が大坂本願寺に兵糧を搬入しようとして織田信長軍と衝突した1576(天正4)年の摂津木津川(淀川の下流)河口での合戦の際には元吉が出陣し、毛利方水軍の中核として大きな功績をあげた。この後織田信長の中国攻めが進む過程で、羽柴秀吉の調略を受けて元吉が動揺したこともあったが、最終的には小早川隆景と連絡を取りつつ、毛利方水軍としての姿勢を維持した。

 来島村上氏の本拠来島城は、今治市波止浜(はしはま)の入り江の入り口に位置し、芸予諸島南部の航路である来島海峡の出入り口をにらんでいる。来島村上氏の全盛時代を築いたのは通康(みちやす)とその子通房(みちふさ)・通幸(みちゆき)である。1555(天文24)年9月に、毛利元就と陶晴賢が安芸国厳島で雌雄を決した厳島合戦は、村上諸氏の水軍力が発揮された戦いとしてよく知られているが、この合戦における村上諸氏の参戦の実否には諸説がある。その中で少なくとも来島村上氏の通康については参戦した可能性が高い。その跡を継いだ通総は織田信長の勢力が中国地方に進出してくると、前線司令官であった羽柴秀吉の誘いを受けて織田方に寝返った。そのために来島城をはじめとする諸城は、毛利氏、河野氏、能島村上氏などから激しい攻撃を受けたが、それを切り抜け、秀吉の四国平定後には大名に取り立てられることになった。また、通総の庶兄通幸は、近隣の国人領主得居家を継いで得居通幸と名乗り、通総と行動を共にして3千石を与えられた。

 因島村上氏の本拠は、備後国因島の東岸に位置する中庄(なかのしょう、広島県尾道市)である。因島村上氏は、因島周辺のみならず、遠く離れた海域でも活動した。室町・戦国初期には、大畠瀬戸にめんした遠崎(とおざき、山口県柳井市)などを拠点にして、周防灘や伊予灘などの海域にまで活動範囲を広げていたことが分かっている。因島村上氏の活動拠点としてもう一つ重要なのが備後国鞆(広島県福山市)である。
 因島村上氏の全盛時代を築き上げたのは、吉充(よしみつ)と弟の亮康(すけやす)である。吉充は小早川氏や毛利氏との結びつきが強く、1582(天正10)年に来島の村上通総が離反した時にも毛利氏への忠誠を誓い、小早川隆景や毛利輝元から周防国内に領地をあたえ螺らている。また亮康は鞆を支配して「鞆津主」と呼ばれていたが、1574年に室町将軍足利義昭が信長によって境を追われ鞆に移ってくると、その護衛と監視も重要な任務になった。
 村上氏が組織的に倭寇とかかわったことを示す史料はないが、伊予など瀬戸内海の住人が何らかの条件の下で朝鮮まで出ていった可能性までは否定できない。

 芸予諸島には、村上諸氏以外にも毛利・小早川系の海上勢力の活動がみられた。因島の西隣の生口(いくち)島を拠点とした生口氏、小早川隆景の本拠三原の近くの忠海(ただのうみ)を本拠とした乃美氏が活動した。安芸灘では下蒲刈島の多賀谷氏が活動したが、多賀谷氏はもともとは東国武士である。備讃諸島海域では塩飽諸島の人々が水軍というよりも、水運で活躍した。〔先日の『朝日』の地方欄で、咸臨丸がアメリカに渡航した際に、塩飽の人々が多く水夫として貢献したという記事を読んだのだが、っ詳しいメモを取らずに見過ごしてしまった。〕 
 周防と伊予の間に点在する防予諸島では忽那氏が活躍した。忽那氏が南北朝時代に南朝方で活躍したことはすでに述べたが、戦国時代になる問よの戦国大名河野氏との結びつきを強め、同誌の水軍力の担い手となる。忽那島の南に位置する二神島は二神氏の拠点としたところで、二神氏も戦国時代には、河野氏の水軍の一翼を担った。〔昔勤めていた学校での同僚に、二神姓の人がいて、やはり愛媛県の御出身であったが、ときどき釣りなどをしていたのを思い出す。ナマズを釣ったけれども、猫も食べないなどと言っていた。大分以前に亡くなられた。改めてご冥福を祈る。〕
 九州沿岸では佐賀関半島や国東半島を拠点にした若林氏、岐部氏、渡辺氏などが活躍したが、それぞれ大伴氏の水軍として重要な位置を占めた。

 このように戦国時代の西国、とりわけ瀬戸内海には、海賊衆村上氏以外にも様々な海上勢力が存在したが、その性格をどのようにみるかは難しく、厳密な意味での海賊と呼ぶことはできないようである。このように多様な海上勢力が存在していたのが、西国の海の世界の特質であったということを見逃してはならないのである。

 西国の水軍ということで、毛利氏のために働いた村上氏や、河野氏、大友氏のために水軍として働いた海上勢力について触れられていたが、信長・秀吉の方も水軍をもっていたはずで、すでに登場した熊野海賊の流れをくむ九鬼氏などはそのような水軍の担い手であったが、そのことについては触れられていない。秀吉を先鋒とする信長の中国経略を一方の方からのみ描くのでは、全体像をつかむことはできない。このあたりが問題である。では、東国はどうなのかというのは、また次回に。 
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