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森本公誠『東大寺のなりたち』(7)

8月10日(金)晴れ、暑さが戻ってきた。

 今回から第4章「廬舎那大仏を世界に」に入る。東大寺と言えば大仏=廬舎那大仏である。ということからすれば、この書物の中心部分といってもいい章である。個人的な思い出になるが、むかし近鉄奈良駅の駅ビルの上の方に、小さな博物館があって、そこで「大仏造立」というモザイク・スクリーンのスライドが上映されていたことがある。そのスライドの制作に助手として携わったのが私である。それで東大寺長老という高い地位にある著者とは別の意味で、東大寺の大仏には興味と愛着がある。

 廬舎那大仏がそのおおよその姿を表したとは言うものの、まだ未完成の段階で、仏像製作に必要な黄金が陸奥で産出されたことを政治的な好機として、聖武天皇は「三宝の奴」という形で仏法への帰依を表明された(天平21年、己丑、749)。また天平感宝への改元、「太上天皇沙弥勝満」という名乗りによる譲位と出家、阿倍内親王への譲位と孝謙天皇の即位、天平勝宝という新たな改元、天皇は一気呵成に重大問題の処理を続けられた。これによって聖武天皇から孝謙天皇へと、政治の頂点に立つべき人物が入れ替わった。「しかし、新天皇は吉備真備から帝王学を受けていたとはいえ、一抹の不安が残る未熟な存在であった。」(110ページ)

 「即位の当日、政府高官の人事異動の発表があり、正三位参議藤原仲麻呂が大納言に、従三位の石上乙麻呂と紀麻呂、それに正四位上多治比広足の三人が中納言に、大伴兄麻呂・橘奈良麻呂・藤原清河の3人が参議になった。」(同上)
 藤原仲麻呂は藤原不比等の長男で南家の祖である武智麻呂の次男。この後盛んに登場するので、それ以上の説明の必要はないだろう。
 石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は左大臣・石上麻呂の三男。天平21年4月1日に廬舎那仏の仏前で左大臣橘諸兄とともに、聖武天皇の詔(この中に寺院に墾田の所有を許すという文面があった)を代読した人物である。『懐風藻』に漢詩を、『万葉集』に短歌を残す文化人であったが、翌年に死去している。彼の子息の宅嗣は大納言となり、自宅内に日本で初めての公開図書館である芸亭を設けたことで知られる(これは日本史の教科書に出てくるはずである)。なお、石上氏はさらにその昔の物部氏の子孫であるが、宅嗣の後は、公卿に昇るものは出なかった。
 紀麻呂はこの後しばらく活躍するが、その後死去。平安時代の学者である紀長谷雄の先祖にあたる。多治比広足(たじひのひろたり)は左大臣・多治比嶋の六男。この後、橘奈良麻呂の乱に連座して失脚する。大伴兄麻呂は大納言・大伴御行の子、万葉歌人である旅人の従兄弟にあたる。橘奈良麻呂は左大臣・橘諸兄の子。反仲麻呂派の中心人物で、この後も登場するはずである。なお、彼の孫の嘉智子は嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となり、仁明天皇を生んだので、現在の皇室にはわずかながら、奈良麻呂の血が流れているはずである。藤原清河は不比等の次男で北家の祖である房前の四男。天平勝宝2年(750)に遣唐大使となり、いろいろな事情が重なってそのまま唐の朝廷に仕えて高官となり、帰国できないまま客死した。

 「古代天皇の強みは何といっても人事権を掌握していたことである」(同上)としつつも、森本さんはこの人事が孝謙天皇ではなく聖武太上天皇の意向によるものであろうと論じている(中国では皇帝は安禄山の乱に直面した玄宗とか、宋の徽宗のようによほどのことがない限り譲位しないが、譲位後は新皇帝が優位に立つのに対し、日本では天皇が譲位して太上天皇=上皇になると、天皇よりも権勢をふるう場合が少なくなかった。聖武太上天皇と孝謙天皇の場合でも、この日本的な関係が表れているが、このほかに考慮すべき点もあって、それが次に述べられる。) 仲麻呂は紫香楽時代に官僚としての有能さが認められ、参議から中納言を飛び越えて大納言と二階級特進を果たした。これは聖武天皇による抜擢であろうというのである。 
 これで、すでに議政官の地位にあった左大臣橘諸兄らを加えた12名が新政権を担うことになった。その中で頭が切れて算術に詳しいという評判のある、新参者で野心家の仲麻呂が会議で発言力を強めていくのは当然のことであろう。

 孝謙天皇はあまりにも未熟だったようで、いざ新体制が発足してみると、太政官体制に軋みが生じたらしく、1か月ほどたつと、紫微中台という新しい役所が設けられる。これは従来の皇后宮職を拡充したものである。この新しい役所の長官には藤原仲麻呂が兼任の形で任命され、参議である大伴兄麻呂、同じく参議で式部卿の石川年足も次官である大弼を兼任することになった。9月に改めて紫微中台の官人構成及び相当位が定められ、総勢22名の四等官制がとられたが、任命された者には議政官、式部省、衛府の官人の兼務が多い。〔のちの蔵人所とちょっと似たところがあるが、蔵人所は実働部隊で、政策決定の権限はない。〕 石川年足(としたり)は権参議・石川石足の長男で、石川氏はかつての蘇我氏の末裔である。年足は能吏であったが、出世が遅く、仲麻呂が台頭すると、その遠縁であったために急速に出世して公卿にまで上り詰めた。

 新しい役所の長官になった藤原仲麻呂は、おそらく彼にとって叔母である光明皇后(この時点では皇太后)の後押しを受けての就任であったと思われる。病気がちの聖武天皇は光明皇后に孝謙天皇の後見を(洒落ではない)依頼し、皇后が頼りになる身内の仲麻呂を抜擢したという経緯であろう。そればかりか「政局の運営がやりやすいように行政組織の改編まで認めたようである。人事や職務の内容を見ると、かつての皇后宮職よりはるかに権限が強化されている。〕(111-112ページ)

 「沙弥となった聖武太上天皇のもと、皇后を置くことがあり得ない女性の孝謙天皇を支えるために、光明皇太后は自らを拠り所とした行政機関の創設を了承し、藤原仲麻呂が実権を振るいやすい政治体制を創り上げたといえる。事実、律令制での最高官庁は太政官のはずであるが、どうやらその権力の大半が紫微中台に奪われ、実権は藤原仲麻呂の掌中に帰したらしい。」(112ページ) 〔このような歴史の理解は特段に目新しいものではない。私が高校生の頃だったか、文学座が上演した有吉佐和子作の戯曲『光明皇后』はこれと似た政治環境を描いていたと記憶する。光明皇后を演じたのはもちろん、杉村春子、孝謙天皇を演じたのは加藤治子であった。〕

 孝謙天皇が即位された後の7月13日に、既に第3章でも触れられた諸寺墾田地上限額の制定という重要な決定がなされた。東大寺は他の寺院に比べるとは破格といってよい4000町という墾田の所有を認められた。しかし、墾田地をもっていいということと、墾田地をもっているということとは違う。墾田地が収穫をもたらすのは先の話である。当座をどうしのいでいくか、既に東大寺の僧侶集団の代表格であった良弁にとっては、孝謙天皇即位後のおよそ半年間は、心労の重なる時期であったと森本さんは推測している。

 廬舎那大仏の仏身は、10月24日に鋳造を完了する。そして12月には螺髪の鋳造が始まる。このような時期に、はるばる豊前(大分県)の宇佐から八幡神が入京し、12月27日に八幡神の神輿一行が東大寺を参拝した。この日、聖武太上天皇・孝謙天皇・光明皇太后も行幸され、百官・諸氏ことごとく東大寺に集まり、僧5,000人を請じて、礼仏読経の法会を営み、唐・渤海の音楽や伎楽が演奏され、日本古来の歌舞も奉納された。
 太上天皇は八幡神に、大仏造立をなし遂げられたのも、八幡神の託宣のおかげであると謝し、位として一品を献じた。「ここに神仏習合への道が開かれていく」(113ページ)と森本さんは論じているが、神仏習合の歴史をこのように単純に割り切っていいのであろうか。
 翌天平勝宝2年(750)正月からは仏身の鋳加え作業に入った。ちょうどこの時期に、等に留学経験があり、当時最も有能な人材とされた吉備真備が筑前守に左遷された。仲麻呂による追い落としである。

 陸奥国の黄金産出の知らせを受けてからちょうど1年という同年2月22日、聖武・孝謙・光明の3人がそろって東大寺に行幸され、これまでの封1500戸に、3500戸を加えて、計5000戸を施入された。天平勝宝3年には、孝謙天皇自身が東大寺に赴かれ、大仏殿建築の責任者である木工寮の長上神磯部国麻呂を貴族に叙した。造営への督励である。こうして大仏造立と大仏殿造営の工事が順調に進捗する。聖武太上天皇が望まれていた仏教伝来200年を期した天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会も可能だというところまでこぎつけた。
 仏教の公伝、つまり百済の聖明王が我が国に仏像・経論を伝えてきたのが、『日本書紀』によると欽明天皇13年(壬申)⇒552年のこととされ、『上宮聖徳法皇帝説』等では欽明天皇御宇の戊午年のこととされる。この記述にはいろいろと議論があるのだが、一応538年のことと考えられている。このどちらがより正確な年代であるかをめぐっても議論があり、現在では538年説の方が有力のようだが、奈良時代は552年説が有力であったのである。とにかく、この記念すべき年に大仏開眼供養会を行うことを近隣諸国に伝えてはどうかという議論が起きた。その結果、どうなったのかは、また次回。

 この時代の歴史を考えるときに、公地公民という律令制の建前と、自分たちの父祖の土地を維持しようとする古代貴族、さらに律令制の枠を利用して自分たちの勢力を拡大しようとする新興貴族という図式、墾田の永続的な所有が認められるようになると、新興貴族や寺院勢力の立場が強くなるといったことが浮かび上がってくるのであろう。
 むかし、中国語中級のコンパの席で、尾崎雄二郎先生が「中国は武士というものがいなかった国ですから」と言われたのは、いろいろな意味が含まれていると思われる(武士はいないが、軍閥というものはあった)が、先生もたぶん、宮崎市定の授業は聴講されたから、中国の歴史が貴族と官僚の対立の歴史(時々軍閥や異民族が絡む)であったくらいのことは耳にされていただろう。尾崎先生の発言は宮崎市定から先生が学ばれたことを先生なりに解釈し直した発言であろうと受け止めている。ということは、森本さんも、いくらイスラム教圏の歴史が専門だとは言っても、宮崎の弟子を自称されているから、中国の歴史をめぐる様々な講義は詳しく聴講しているだろうし、武士の出現しなかった中国と、武士が強い影響力を持つに至った日本という対比は念頭にあるのだと思う。それから、日本では寺社勢力というものがかなり強いということも、ご本人が僧侶であるから言いにくい部分があるかもしれないがご存じのはずである。歴史というものをただ単に、支配者の気質や性向によって動かされるものと考えてはいけないのであって、東大寺の歴史はその意味でも大きな広がりを持っているのではなかろうか。
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