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ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(10)

8月9日(木)曇り、午後になって晴れ間が広がる

 インドのヒンズー教寺院の神像の額を飾っていた黄色のダイヤモンド月長石(Moonstone)は、数奇な運命の果て、英国にわたってきた。そして、1848年のある夜、秘宝は持ち主であるヨークシャーのヴェリンダー家から忽然と消失してしまった。そして月長石の行方は分からぬまま、ついには殺人事件まで起きる。
 事件が一応決着した1850年に、ヴェリンダー卿夫人の甥であるフランクリン・ブレークは事件の顛末を記録に残すことを思い立ち、関係者の証言や彼らが遺した文書を集める。ある家の記録から1799年の英軍によるセリンガパタム攻撃の際にヴェリンダー卿夫人の兄であるジョン・ハーンカスルの手に入ったことが知られる。この記録の書き手は、ジョンが略奪が禁じられていたにもかかわらず、インド人たちからこの宝石を強奪したのではないかと怪しんでいる。

 1848年に起きた出来事について最初に執筆することを依頼されたのは、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジである。彼がその娘であるペネロープの助けを借りて、思い出したところでは:
 1848年5月24日に、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から長らくヨーロッパで暮らしていた甥のフランクリンが翌日にヴェリンダー家を訪問する。到着は夕方になるはずなので、その日、ヴェリンダー卿夫人と一人娘のレイチェルは外出するが、その留守中に、3人の旅回りの手品師らしいインド人が邸で芸を披露させてほしいとやってくる。留守番役のベタレッジは、主人は今いないのでと申し出を断るが、彼らの様子を怪しんでいたペネロープが、この3人を警察に逮捕するように通報してほしいといってくる。彼らは怪しい術を使って、フランクリンの到来を予測し、待伏せしようとしている様子だというのである。しかしベタレッジは取り合わない。
 次に彼のもとにやってきた台所係のナンシーが、(召使たちの)夕食の席に下働きの女中のロザンナがいないので呼んでくるように言われたというので、ベタレッジは彼女に代わってロザンナを探しに行く。ロザンナはヴェリンダー卿夫人がロンドンの犯罪者矯正施設から連れてきて雇っている召使である。ベタレッジが荒涼とした海岸の浜辺に座っていたロザンナと話していると、突然、一人の青年紳士が現れる。その姿を見たロザンナは、顔を赤らめてその場を去ってゆく。青年紳士は、ベタレッジが子ども時代のことしか記憶していない、フランクリン・ブレークであった。彼は邸でペネロープから話を聞き、詳しい事情をベタレッジから素人ここまでやってきたのである。そして、前日の出来事を聞いて、インド人たちが探しているのはこれだろうと、紙に包まれた月長石を取り出す。

 ベタレッジは驚いて言う。
  ’Good Lord, sir!' I broke out, 'how do you come to be in charge of the wicked Colonel's Diamond?'
  ’The wicked Colonel's will has left his Diamond as a birthday present to my cousin Rachel,' says Mr Franklin. 'And my father, as the wicked Colonel's executor, has given it in charge to me to bring down her.'
 中村訳によると:
「ほほう!」と私は思わず声をあげた。「どうしてまた、あの陰険な大佐のダイヤモンドが、あなたさまの手に入ったのでございますか」
「大佐の遺言によって、このダイヤモンドはレイチェルの誕生日のお祝いに贈られたのだよ。そして、ぼくの父が大佐の遺言執行人なので、ぼくにここへ持たせてよこしたんだ」(52ページ)
 ”Good Lord!は驚きを表す表現なので、「ほほう」などと落ち着いた感じで訳すべきではないだろう。「おやまあ」とか「これはこれは」あたりではないか。 ”in charge of"は「預かっている、受け持っている」という意味だから、「手に入った」ででも悪くはないが、「何でまた、あなたさまが持っていらっしゃるのですか」ということであろう"wicked"は「邪悪な、悪意のある」ということで、「陰険な」でも悪くはないが、「邪悪な」としておいた方がベタレッジの気持ちを表現する上で適切ではないかと思う。
 そしてその”wicked"をフランクリンが繰り返して使っているのが、中村訳では省かれている。「お前は邪悪だというけれども、何で邪悪だというのか、説明してほしい」という気持ちが現れているとみるべきであろう。
 フランクリンの父親については、すでに説明したし、実はその説明のもとになった箇所がこの後に出てくるから、ここでは説明しない。executorは「遺言執行者」で遺言者から遺言をもって遺言執行を委ねられた人物であり、裁判所によって任命された遺産管理人(administrator)とともに死者の人格代表者(personal representatives)と言い、死亡者を埋葬し、その遺産を管理し債権を取り立て債務を弁済し遺贈を支払った後、残余財産を遺言により権利ある人にい分配する義務を負う。誠実に任務を執行した場合には裁判所の命令により相当の報酬を受けると高柳賢三・末延三次(1973)『英米法辞典』にある。〔とともに、という言い方は誤解を招きやすい。もし死者が遺言を残さずに死亡するとか、遺言執行者に指定された人がそれを拒否した場合に、遺産管理人が指名されるのである。〕

 これを聞いてベタレッジはますます驚いて言う。「あの大佐のダイヤモンドがお嬢様にですって! それに、お父様が大佐の遺言執行人とは! お父様は見るもいやなほど毛ぎらいしていらっしゃったじゃありませんか。フランクリンさま、これにはいくらでも賭けてよございますよ!」
 「これはまたてきびしいな! 何か大佐に含むところでもあるのかい。ぼくと違って、お前はあの大佐と同じ年代の人間だ。大佐について知っていることをみんな話してくれないか。そうすればぼくも、父が大佐の遺言執行人になったいきさつや、そのほかのことも話すよ。ハーンカスルおじさんとこのダイヤモンドについて、ロンドンでいくらか分かったことがあるんだが、それがぼくの目にはどうも怪しいふしがあるんだ。それでおまえにそれを確かめてもらいたいんだよ。さっきおまえは大佐のことを『陰険な』と言ったね。さあ、よく思い出して、そのわけを話してくれないか」(同上)

 「これはまた手厳しいな!」と訳されていることの原文は’Strong language, Betteredge!' この場合のstrongは「激しい、冒涜的な」ということで、「お前にも似合わずに、厳しい意見を言うねぇ!〕というような感じであろう。死者に対して、あまりにひどい意見を言うべきではないという常識が、フランクリンにはある。「なにか大佐に含むところでもあるのかい?」というところの原文はWhat was there against the Colonel?で、「含むところがある」だと、ベタレッジ個人が何か彼に対して批判的にならざるを得ない事情があるような言い方になるが、原文の書き方は「大佐に対して何か不利になるようなことがあるのかい?」という意味だと思う。この次の回にベタレッジの口から語られるが、ベタレッジと大佐の間には深い関係はないし、会ったのも一度きりである。年齢的にみて、フランクリンよりもベタレッジの方がジョン・ハーンカスルに近いし、それだけよく知っているはずだとフランクリンは考えている。〔そうであるのならば、ベタレッジなどに聞くよりも、ジョン・ハーンカスルの兄が生きていれば、彼に聞く方がいいし、そうでなくても他に聞くべき人は大勢いるのではないかという気がする。とにかく、ジョン・ハーンカスルとベタレッジとでは、社会階級が全く違うということをフランクリンはあまり気にしていないようである。最初に挙げた、セリンガパタム襲撃の記録を残した人物の文書を、この時点で入手しているのだから、その筋から真相に迫ってもよかったのである。身分の低いベタレッジに大佐の人物像を尋ねるあたり、同じ社会階層の人間には評判が悪かったが、もっと下の社会階層の人間には評判がよかったのではないかというフランクリンの質問以前の下心が見え透いているようにも思われる。〕 フランクリンは、明らかに気安く話ができる相手だけを選んで真相を知ろうとしている。推測するに、フランクリンは自分が一番賢いと思っているために、他人の意見を聞かずに暴走するタイプのように思われる。〕 そしてもちろん、なぜベタレッジが大佐をwickedといったのかの理由も問いただしている。

 一族の中で大佐が嫌われ者だったことなどの事情についてフランクリンが真剣に知りたがっていることを知って、ベタレッジは事情を説明する。この後で明らかになるが、フランクリン自身は自分の伯父(母の兄)であるジョン・ハーンカスルに会ってもいないし、父親から話を聞くだけなのである。フランクリンの父親は、これからある程度詳しく説明されるが、別の、きわめて利己的な用件のために、義兄であるジョンをそれなりの利用価値にある人物だと思っていたふしがある。似たもの親子という言い方もあるが、父親も息子も、他人をあまり疑わない、わりに物事を楽天的に、悪くいえば自分に都合よく考えるところがあったようである。そもそも、父親は自分でダイヤモンドを運ぶべきであるし、引き受けたフランクリンはもっと事情をしっかり調べてからヨークシャーに出かけるべきであった。

 これから何が起きるかはわからない、しかし、身分の高いフランクリンの方が物事を楽観的にとらえ、身分の低いベタレッジの方が危険を感じているという受け止め方の違いは、この後の物語の展開に大きなかかわりを持っている。ジョン・ハーンカスルの邪悪な性格が物語全体にもたらす暗い雰囲気もさることながら、フランクリンの楽天的で軽率な性格が周囲の人々に及ぼす悪影響も無視しがたいものがある(と私は思う)。
 
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