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『太平記』(222)

8月6日(月)曇りのち晴れ、依然として暑い。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽城(あすわのじょう)を攻めた。7月、越後勢を合わせた新田軍のもとへ、吉野から、石清水八幡宮のある八幡山に陣を張る宮方の北畠顯信(親房の次男、顕家の弟)、新田義興(義貞の次男)の軍勢に加勢し、京都を南北から攻撃せよという勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京都に発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京都に呼び返したが、その際に師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の知らせを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も河内へ退却した。

 義貞が京都への出発を急いだのは、八幡に陣を張っていた宮方の軍勢に加勢し、京都攻略の糸口を見出すためであった。しかし、その意図が達成できなかった以上、腰を落ち着けて北陸地方の足利方を一つ一つ退治して、そのうえで南方と連絡を取って、合戦をしようと、義貞も(福井市川合鷲塚町)へと進んで、まず足羽城を攻めようと考えた。

 斯波高経は、このことを聞いて、味方はわずかに300騎に足りない軍勢にすぎず、義貞の3万騎の軍勢に囲まれれば、千に一つも勝つことができそうもないと思ったが、新田勢がすでにあちこちの道路を封鎖したといううわさも入ってきて、落ち延びようにも落ち延びられそうもないという状態である。こうなったら、戦死を覚悟して、城に籠るよりほかに取るべき方途はないと、泥の深い田に水を流し込んで、馬の脚が立たないようにし、道を掘り切って、渡れないように深い溝を掘って、そうした相手の進撃を邪魔する仕掛けの中に7つの城(足羽七城=黒丸城、波羅蜜城、安居城、河合城、春近城、江守城、勝虎城)を築き、敵が攻めていけば、お互いに連絡を取り合って、包囲されれば後攻めができるようにして、準備を整えていた。

 この足羽というのは、その半分が九頭竜川の南一帯にあった荘園である藤島庄と境を接していて、城も半分ほどがこの庄内に入り込んでいた。藤島庄は源頼朝が流域の平泉寺に寄進した荘園であったが、その年貢の多くが本寺の比叡山延暦寺に分与されたため、領有をめぐって両寺の対立が続いていた。このため、平泉寺の衆徒の中から、「藤島庄は、この寺が長年にわたり比叡山と争論を続けてきた土地である。もし斯波高経がこの荘園を平泉寺のものと認めるということであれば、若い僧たちは入城させて軍功を立てさせ、長老の僧は堂にこもって一身に陀羅尼を誦して戦勝のための祈禱を行うつもりである」と申し出があった。

 斯波高経は大いに喜んで、今度の合戦では、ひとえに平泉寺の衆徒の力を頼りにし、祈禱を受けた霊神の援助を頼むのであるから、藤島庄は平泉寺のものと判定しよう。もし、勝ち戦の利を得ることになれば、重ねて恩賞を申し渡す」という(本来ならば将軍が発給する文書である)「御教書」を発給した。斯波高経は足利一族のなかでも、家格の高い人物なので、越権ともいえるような行為に踏み切ったのであろう。〔とにかく味方が欲しかったということもあるだろうが…〕 これに勇み立った衆徒たちのうちで、若い500人ほどは藤島に下って3つの城に立てこもり、長老の僧たち50人は怨敵調伏の法を行ったのであった。

 平泉寺の長老の僧たちが調伏の法を行っている最中に、義貞は不思議な夢を見た。ところは今の足羽辺りかと思われる川のほとりで、義貞と高経とが相対して陣を張っている。まだ戦わずににらみ合いながら数日を過ごすうちに、義貞が急に身の丈30丈(90メートル)ばかりの大蛇になって地を這う。高経はこれを見て、兵を退却させ、楯を捨てて逃げること数十里と見たところで、夢は醒めた。義貞は朝早く起きて、この夢を周囲の者に語ったところ、「龍は、雲と雨の猛威を起こすものである。高経は雷の響きに怖気づいて、逃げるということであろう。めでたい夢である」と夢解き占いをした(吉と占った)。

 その時、斎藤入道道猷(基傅)が、隣室でこの話を聞いていたが、眉をひそめていったことには、「これは全くめでたい夢ではない。天の災いを告げるものである。そういって、彼は中国の魏・呉・蜀の三国の故事を延々と語り、北国に新田、京都に足利、吉野に後醍醐帝の3つの勢力が鼎立している今の情勢は中国のこの時代に似ているという。特に、龍は万物が動き出し、外へ生じようとする陽気に向かって威をふるい、万物の動きが衰え、内へ籠ろうとする陰の気の時節には虫が地中に冬ごもりするように閉じこもるものである。時は、今(7月で)陰の季節に差し掛かる頃である。しかも、龍の姿で水辺に臥したという夢の中身であるが、蜀の名臣であった諸葛孔明が臥龍(がりょう)と呼ばれたのと符合している。ということで、おのおの方はめでたい夢だと占ったけれども、道猷はどうも感心しない夢に思われる」といった。この言葉を聞いた人々は、内心思い当たることがないでもないという気分はしたものの、これからの戦いにとって不吉な言葉なので、それに同意して、夢は凶夢であるというものはいなかった。

 今日は広島への原爆投下記念日なので、それにちなんだ記事を書こうかと思ったが、適切な内容も思い浮かばないので、『太平記』の紹介を続けることにした。もともと、戦乱の記録であるのに『太平記』と内容とは逆の題名がつけられているところに作者の平和への強い願いを読み取るというのが通説なので、これはこれでいいのではないかと思う。
 越前(福井県)の平泉寺はこれまでも登場したが、現在は白山神社になっている。渡部昇一と英語教育大論争を展開した平泉渉はこの神社の社家の出身である。越前をはじめとする北陸地方は、白山信仰、立山信仰と結びついて山岳修験が盛んであり、その拠点の寺院は侮れない力を持っていた。越前の斎藤入道道猷は言うまでもなく、『今昔物語』に登場する鎮守府将軍藤原利仁(芥川の短編「芋粥」のもう一人の主人公)の子孫で、『平家物語』に登場する斎藤実盛の一族である。『太平記』には、物語の要所要所でこの利仁流斎藤氏の武士が少なからず登場するのも、注目していい点かもしれない。)

 確か前々回に、新田義貞の次男である義興について、長男の義顕が死んだので、跡を継ぐ存在になったというようなことを書いたが、これは誤りで、義興は母親の身分が卑しかったので、三男の義宗が後を継ぐことになっていた。義興と義宗、それに彼らの従兄弟である脇屋義治は、この後、巻31辺りから再度活躍するはずである。義興は、武蔵国の矢口の渡しで最期を遂げることになり、その場所がどこかをめぐっては諸説あるそうだが、関東の人間にはこのため結構なじみのある人物である。
 新田義貞の夢の吉凶をめぐっては、解釈が分かれたが、結果的にはどうであったかというのはこれからの展開で分かる。旧暦(太陰太陽暦)では7月は陰の季節≂秋の始まりである。しかし、この年(暦応元年、南朝延元3年)は閏年で閏7月があるので、話がややこしくなる。なお、キリスト教世界でこの時代に使われていたユリウス暦では1338年は閏年ではないが、我が国の貞観4年(862)から日本で採用され、貞享2年(1685)まで使用されていた宣命暦では閏年になるのである。太陽暦の1年は365日だが、閏年には閏日が設けられて366日になるのに対し、太陰太陽暦の1年は354日で、19年に7回閏月が設けられる。さらに詳しいことを知りたいと思われる方は、ご自分でお調べください。
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