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森本公誠『東大寺のなりたち』(6)

8月3日(金)晴れ、依然として暑い。

〔前回までのあらまし〕
第1章 東大寺前史を考える
 東大寺は神亀5年(728)にその子・基親王の夭折を悼んで聖武天皇が造営された山房を起源とするが、次第にその規模を拡大し、天皇が仏教への傾倒と理解を深められ、国政の指針とされるだけでなく、諸国に国分寺を建立して、仏教に基づく国家建設を推進しようとされるに至り、総国分寺としての役割を担うことになった。
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
 この時代に続いた干ばつや飢饉の中で天皇は仏教の社会に果たす役割を重視されるようになり、行基とその集団の活動に理解を示されるようになったほか、都に大仏を造立することを発願された。
第3章 宗教共同体として
 聖武天皇は律令制のもとで、経典を習い覚え、仏事方法を身につけ、一定期間の修業を積めば僧尼となることができるという制度が、実際には狭き門となっていることを認識し、また経典や仏教の儀式に通じていても、社会的な災厄に対して無力な僧侶の存在に疑問を抱いていたために、国家的な事業に奉仕することによって出家できるという特例を設けた。(以上前回まで)

 今回は第3章「4 国分寺と東大寺」についてみていく。
 聖武天皇は天平13年(741)に国分寺の創建についての勅を出されたが、そこでは民衆に仏教思想を啓蒙するという目的も込められていた。そのためには僧侶自身が民衆を救うためのあらゆる手段を身につけることが前提となる。そのためには新しいタイプの僧尼を養成する必要があると天皇は考えられたようである。

 僧侶の組織的な養成についてはよくわかっていないが、玄奘がインドから伝えた五明(=五つの学問)の伝統が日本にも伝わっていたと、森本さんは考えている。玄奘の『大唐西域記』(巻第二)によると、児童の教育はまず悉曇十二章からはじめられ、7歳以後五明の基礎が教えられるようになるという。悉曇というのは梵字・梵語の書法・音韻の学問で、古代インドの言語、具体的にはサンスクリットの学習と 考えてよいだろう。
 五明の第一は、声明(しょうみょう)で「現代では言語学や文法、外国語にあたる」(97ページ)と森本さんは説明しているが、これでは何のことかわからない。『広辞苑』には音韻・文法・訓詁の学とあって、こちらの方がわかりやすいが、問題はどの言語の音韻や文法が学ばれているのか、示されていないことである。森本さんは現在では声明は「節の付いたお経」(98ページ)という意味になっているとも書いているが、現在の仏教の経典は漢文に翻訳されたものが使われており、とすると、言語関係の学習は漢文中心だったのではないかと思われるが、その点についてはなぜか明言されていない(もちろん、悉曇学もある段階以上では兼修されていたはずである)。
 第二は工巧明(くぎょうみょう)は「技術・工芸・陰陽・暦数」で幾何学や建築、土木や天文などの学問・技術を含む領域である。
 第三は医方明(いほうみょう)で医術、薬草学、さらには鍼灸術にわたる領域である。
 第四は因明(いんみょう)で「正邪を考え定め、真偽をきわめしらべる」学問で、論理学にあたるという。
 第五は内明(ないみょう)で「五乗の因果の妙理を研究する」学問であり、仏教を主とした教学を指すというが、「五乗」というのがなんのことかわからないので、『広辞苑』で調べてみたところ、仏乗・菩薩乗・縁覚乗・声聞乗・人天乗または、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・人間乗・天上乗のことだという。つまり悟りに至る様々な方法ということのようである。
 これらのうち、声明はすでに述べたように意味が変わり、工巧明と医明は専門化して仏教の勉強からは離れ、因明と内明が論義法要として現在まで(仏教の学習の重要な部分として)残ったという。

 このようにかなり広い領域にわたって、高い水準の学問を地方の国分寺で教授することは不可能なので、都の国分寺である後の東大寺がその役割を担ったのである。12歳から20歳までの入寺希望の男子を優婆塞として受け入れた国分寺では、資格に堪える者を沙弥として得度させると、できるだけ都の国分寺に送り込んで教育を受けさせるようにする、おそらくはこのシステムを提言したのが道慈出会ったというのが森本さんの推測である。彼が唐で経験し、修得した様々の学問や技術をこのシステムを通じて普及し、そのことで仏法による国土の繁栄を期すというのがシステムの意図であったというのである。

 一定期間の基礎学習を終えると、沙弥は六宗にわたって仏教学を学んだ。日本史で「南都六宗」という語に出会ったかもしれないが、その六宗である。ここでの「宗」は教義上のいわば学派のことであり、後世(現在)における宗派とは異質のものであるという。奈良時代には六宗があり、平安時代になると真言と天台が加わった。(仏教の概説書として知られる凝念の『八宗綱要』はこの八宗について述べ、さらに禅と浄土教についても簡単に触れている。)
 六宗は華厳宗、法相宗(ここでは法性宗と表記されている)、三論宗、律宗、俱舎宗(薩婆多宗)、成実宗である。仏教の経典は経(仏の説いた教法を聞いたまま述べた典籍)・律(釈尊の制定した戒律の条例を収めた教典)・論(法や蔵を論述した聖賢の所説)に分けられるが、華厳宗はその中の華厳経、三論宗は竜樹の中論、十二門論と竜樹の弟子提婆の百論、律宗は律、俱舎宗は俱舎論、成実宗は成実論をその拠り所としている。(法相宗はこの点がもう少し複雑なので、ここでは説明しない。興味がおありの方は、ご自分で調べてください。)

 当時、東大寺には1,000人を超す僧侶がいたと推測できるが、その大半は沙弥であったと森本さんは考えている。東大寺は大安寺や興福寺に比べると後発の寺であったが、急速にその規模を拡大していった。東大寺にはまた奴婢と呼ばれる人々が多数施入されていたが、その内容を詳しく検討すると、いわゆる奴隷のように使役される存在ではなく、「もとはバラバラになった難民ともいうべき家族ではあったが、これからは東大寺で何らかの仕事をして面倒を見てもらうようにという、一種の社会的救済措置だった」(107ページ)と論じている。(著者が東大寺内部の人間なので、その点でこの議論は割り引いて考える必要があるかもしれない。)

 今回取り上げた部分で面白かったのは、「五明」の内容を見ていくと、ヨーロッパ中世の七自由学芸と共通するものが多いということである。両者を比べてみると、声明は七自由学芸の文法(と修辞)、工巧明は算術・幾何・天文学、医方明に対応する自由学芸はないが、中世ヨーロッパの大学の学部の一つが医学部であり、因明は論理学、内明はこれも学部段階の神学に相当すると思われる。また自由学芸の残る1科目である音楽も声明と対応するかもしれない。ということで、文化や宗教の違いにもかかわらず、学ばれる領域には共通性があるというのは興味深いことである。また、奈良時代の日本が、ヨーロッパでようやく平和がもたらされ、文化の華が咲き始めたカロリング朝ルネサンス(8世紀末から9世紀初め)よりも少し前の時代であることも注目していいことである。
 
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