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『太平記』(221)

7月30日(月)曇りのち晴れ、暑い。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、越前勢力を挽回していた新田義貞は、足利一族の斯波高経が守りを固めている足羽七城を攻めた。越後から新田一族を中心とする援軍が到着し、戦いは宮方に有利に展開したが、7月に、新田軍のもとへ、吉野の後醍醐帝から、八幡の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。そこで、義貞は都に向かうことになった。

 児島備後三郎高徳(岡山県瀬戸内市邑久町、倉敷市児島あたりの武士。終始宮方に仕え、これまで何度も登場してきたが、なぜ、ここで出てくるのかよくわからないところがある)が新田義貞に向かって言うことには、「建武3年の京都の合戦の時に、宮方の軍が比叡山を支えきれなくなって退散したのは、戦闘の勝敗の結果ではない。ただ、北国への道を敵に塞がれて、兵糧を運ぶ道が閉ざされたためである。今後も、同じようなことが予測され、たとえ比叡山上に陣営を構えても、一昨年のように補給路を封鎖されるのは眼に見えている。そこで、越前、加賀の主だった城にはそれぞれ、軍勢を6千騎から7千騎ほど残されて(補給路を確保したうえで)、比叡山に陣を構え、京都を日夜攻撃するのが、着実な戦い方であり、(京都の南の石清水八幡宮のある)八幡の宮方の軍勢もまた力をつけ、足利方を滅ぼすことができるだろう。とはいえ、小勢で比叡山に上ることになると、衆徒(僧兵)たちは予想よりも軍勢が少ないと思って、味方から離れてゆくものが出るかもしれない。あらかじめ山門に書状を送って、衆徒の心持をさぐってみたほうがよいだろう」と語ったので、義貞は、「まことに貴殿の計略は緻密で思慮深い。そういうことであれば、ただちに書状を書いて、比叡山に送ることにしよう」と答えた。高徳はすでに心の中で草庵を練っていたのであろうか、筆を執って書状をしたためる。

 この書状は比叡山がその創建以来国家と朝廷のために貢献する使命を果たしてきたことを述べ、尊氏・直義に率いられた武士たちが後醍醐帝に反旗を翻したのに対し、比叡山が戦ってきた戦歴を称賛し、新たな協力を要請するものである。地方武士である児島高徳に豊かな修辞を凝らして、中国の故事を織り込み、比叡山の歴史をたどりながら宮方への支援を求める書状を書く力があったかは(既出の、有名な「天勾践を空しうするなかれ」の故事同様)、どうも当てにできないのだが、この書状を受け取った比叡山は喜び、東塔、西塔、横川の三塔が会合を開いて、協力を決議、義貞のもとに返信を送った。

 比叡山からの返信が越前の新田方に届いたので、義貞は大いに喜び、すぐに上洛しようと考えたが、このまま北国を留守にして上洛すると、斯波高経が必ずや後から兵を集めて、北陸道を封鎖するであろうと考えて、軍勢を二手に分け、一方は越前に残って北国の足利方の攻撃に備え、もう一方は京都を攻めることにした。義貞は3千余騎を従えて、なお越前に留まり、弟の脇屋義助が2万余騎を従えて、6月3日、越前の府(福井県越前市)を出発して、5日に敦賀の港に着いた。
 越前市を出発した翌々日に敦賀に到着するというのは、北陸トンネル開通後のことしか知らないのではあるが、山道を進んでいるとはいえ、進軍の速度が遅い。あるいは途中、杣山城に滞在するというようなことがあったのであろうか。岩波文庫版の脚注によると、このあたりの年月日の記述は矛盾が多いそうである。

 京都の足利尊氏は、北国のこの動きを聞き知って、(新田義興と北畠顯信が立てこもる)八幡の城をまだ攻め落とすことができず、わが軍の兵たちは戦いにつかれているときに、脇屋義助と比叡山が一緒になって京都に攻め寄せようとしているのは、由々しい一大事である。戦闘が始まって退却すれば、吉野の宮方が勝ちに乗じて勢いを得るだろう。まだ事態が大きく動く前に、早めに八幡の合戦の決着をつけて、京都に帰ってくるべきであると、執事である高師直に指示した。

 師直はこの指示を聞いて、もし八幡を攻め落とさずに引き返すことになれば、事態は南朝方に有利になるだろう。と言って、京都から八幡に兵を進めて、京都の防御を手薄にすれば、北国の敵にすきを窺われることになるだろう。どうすればいいだろうと、進退窮まった気持ちになったが、ある風雨の強い夜に、「逸物(いつもの)の忍び」(岩波文庫版、第3分冊、361ページ、すぐれた忍びの者)を八幡山に潜入させ、八幡宮の神殿に火をつけさせた。
 『太平記』ではことさらに悪役ぶりとして描かれている師直であり、この年の5月に北畠顕家を打ち破ったことが省かれているなど、武勲の方はできるだけ触れずに、悪行の方が強調されるきらいがあり、ここでも戦術として忍びの者を使って放火したということよりも、八幡宮という由緒ある神社(この時代は神仏混交しているから、神社と言い切るのは間違いであるが)放火したという乱暴狼藉の側面が強調されている。

 八幡大菩薩というのは、京都を守る寺社の一つで、応神天皇と神功皇后という皇室の祖先をまつる神社であり、足利家の先祖である源頼義が石清水八幡を崇敬し、自邸に勧請して以来、清和源氏の氏神とされてきた。だからまさか、敵が社殿に火をつけるとは思わずに、宮方の方でも油断していたものだから、放火されて大慌てになった。これをみて、八幡山を囲んでいた10万余騎の足利方は、山から分かれ出ている谷々から攻め上がり、城門近くまで攻め寄せる。この城は、三方は険しい斜面になっていて、敵は簡単に近づくことはできないので、防戦には有利である。西に流れる尾崎(山の尾根が下がってくる先端)は、傾斜が緩く続いているので、地面を掘って空堀を作ったのを頼りにして、北畠顯信の配下の500人当たりが防御していたが、大勢の敵の来襲に出会って、その勢いにしり込みして、退却しそうになってきた。
 城の中の宮方の武士の中に、多田入道という武士がいたが、その配下に、高木十郎、松山九郎という名を知られた兵が2人いた。高木は勇敢ではあったが、力が足りず、松山は力持ちではあったが、臆病であった。この2人がともに西の木戸を守る兵たちの中、一ノ木戸が破られ、二の木戸を何とか支えている、その二の木戸の部署にいた。足利方は逆茂木を引き抜いて、城中に侵入しようという勢いを見せていたが、これを見て松山は、臆病風に吹かれてふるえていて、戦おうともしない。
 そこで高木が怒って、刀を抜き、こうなればお前と刺し違えて死ぬと脅したので、松山も戦う気を起こして、そばにあった大石を持ち上げて敵をめがけて投げつける。この大石に打たれて、足利方の兵は将棋倒しになり、多数の死者を出した。こうして八幡山の宮方の軍勢は、陥落を免れたのであった。

 ところが、敦賀まで到着した脇屋義助の軍勢は、八幡山が炎上したという知らせを聞いて、陥落したと思い、情報を確認するために、数日間、ぐずぐずと進軍せずにその場にとどまっていた。八幡の宮方の軍は食料を焼き払われてしまっているので、残る兵糧がなく、一日も持ちこたえられない様子であったのだけれども、北国の軍勢が攻め寄せてくるという情報を頼りにして、4・5日間はまっていたが、あまりにも時間が長くかかってしまっているので、力なく、6月27日の夜半にこっそりと八幡を引き払い、また河内国に帰った。
 ここで、八幡の宮方の兵がもう少しの間頑張り続け、北国の軍勢はとどまることなく前進していれば、京都は容易に陥落したかもしれないのを、両者の連絡がうまくいかず、ともに引き返すことになったのは、後醍醐帝のご運がまだ開けないということであったのであろうか。どうにも不運なことであったと『太平記』の作者は記す。

 八幡の城を包囲している高師直の軍勢は10万余騎、これに対して八幡に立てこもっている宮方は500余騎、脇屋義助の率いる軍勢が2万余騎、比叡山が動員できるのは3千人くらいだろうから、どう考えても、幕府方の兵力に比べて宮方の戦力は見劣りするのである。だから、初めから宮方の劣勢は明らかなのだが、当事者の心理はまた別の動きをするということであろうか。
 気になったことを2つ書いておく。義貞が兵を二手に分けて、自分は越前に留まり、弟の義助を京都に向かわせたというのが判断ミスではないかという気がする。義貞が京都に向かい、義助を越前にとどめるほうがよかったのではないか。これはその後の展開と関係してくる。もう一つは、八幡城の宮方の中に多田入道という武士がいたということで、岩波文庫版の脚注には、「名は不詳。兵庫県川西市多田院を拠点として摂津源氏。多田満仲を祖とする」とある。摂津国河辺郡多田というのは清和源氏が最初に所領とした土地で、多田氏は源頼光の孫頼綱に始まる名門なのだが、多田行綱の代になって源頼朝に疎まれて所領を没収され、その後の詳しい消息が不明になっている。この時代には、南朝方に味方するものが多かったらしい。 
 
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