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日記抄(7月23日~29日)

7月29日(日)曇り、その後晴れ間が広がる。暑い。

 7月23日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:
7月23日
 『日経』朝刊の「経営の視点」というコラムで編集委員である太田泰彦さんが書いている「米中貿易戦争の結末は 森を見ず木を見よう」という論稿が興味深かった。貿易戦争で米中のどちらかが勝つかよりも、展開の中で米中のどの企業が生き残るかの方が注目すべき問題だというのである。木(目の前の小事)を見て森(大局)を見ずという近視眼的なものの見方を戒める諺があるが、実際は、森の中の樹木の観察から、森の性格を判断することができることもあるので、木も森もともに見ていくことが必要であろうなどと考えたりした。
 トランプ大統領の内政・外交政策をめぐっては、『朝日』朝刊のコラム『風』では沢村亙さんが「「大国疲れ」凡庸化する米国」という文章を書いているが、特にトランプ大統領の「政治漫談」としか言いようのない演説を「こんなに分かりやすかったのは初めて」と感激の面持ちで語った中年女性の話など、この大統領の人気のありかを示していて、興味深かった。また、『日経』朝刊は、『フィナンシャル・タイムズ』に掲載されたジャナニ・ガネシュ「トランプ外交の『賞味期間』」という論稿を転載していて、この大統領のかならずしも適切とは言えない内政が多くの国民の支持を集め、今後も継続されていきそうなのに対し、外交政策は大統領の交代によって見直しを迫られるだろうという見通しが述べられている。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の"¿Cómo se comunica?"(ことばと場面)のコーナーでは、スペイン語圏の中での地域による食べ物や飲み物の語彙の違いが紹介された。
 じゃがいもはラテンアメリカ原産であるが、ラテンアメリカではla papaというのに対し、スペインではla patataという。〔余計なことを書くと、フランス語ではla pomme de terre=大地のリンゴという。la patate (douce)はサツマイモのことである。イタリア語ではla patataがジャガイモ、la patata dolceがサツマイモである。la patata americanaという言い方もあるらしい。〕
 トマトもラテンアメリカ原産であるが、メキシコではel jitomateと言い、その他のスペイン語圏ではel tomateという。〔フランス語ではla tomate, イタリア語ではil pomodoroである。スペイン語とイタリア語では男性名詞であるが、フランス語では女性名詞である。〕

7月24日
 『朝日』朝刊の「ネット点描」のコーナーで原田朱美さんが『高校卒業後 つまずく若者」という考察を展開している。日本の社会では高校までは指導者の言うことをよく聞くように言われるが、大学に入ると大人として自立した振る舞いをもとめられる。そのギャップの大きさが多くの若者にとって困難に感じられるというのである。
 私が大学の1回生だった時の秋に、学生有志の話し合いがあった際に、文学部のS君が同じようなことを言っていた。もう50年以上昔の話である。日本の社会では(おそらくは受験競争と相まって)全般に若者の社会化を遅らせる傾向があるが、どこかで社会化を促進するような措置を講じないと、この問題はいつまでたっても解決しない。
 日本の旧学制では、16/17歳になると旧制高校、あるいは専門学校、あるいは大学予科に進学したり、早いものは小学校卒業後に就職したりしたから、社会化は今より早く行われていたのである。しかし、今さら高学歴化傾向に歯止めをかけようというのも無理である。高校生活をもっと自由にして、生徒に責任を持たせるようにするとか、自治活動を推進するとか、ギャップ・イヤーを導入するとか、方法はいくつか考えられるので、こういうところで議論を活発にして方策を講じる必要があるだろう。
 ところでこのS君というのは、私の詩を高く評価してくれた友人の一人で、そのため、私は彼のことを忘れがたく思っているのである。

 脚本家の橋本忍さんを追悼して、『朝日』は山田洋次監督、中島丈博さん、野上照代さんの談話を、『日経』は山田監督の文章を掲載していた。橋本さんが先の先まで物語を考えて、脚本を書いていた話を山田監督が記していたのが印象に残る。

 『日経』朝刊の文化欄に猪又義孝さんという人が、「世界のしおり 形とりどり」という文章を書いている。布製、皮革製、金属製などのしおりがあるという。それぞれ私も持っているが、金属製のしおりには本のページを痛めるという問題点がある。
 そういえば、ロンドンの大英博物館の近く(あるいはTUC=労働組合会議の本部の近く)にBookmarksという左翼系の本屋があった。たぶん、今でもあると思う。ここのショウウィンドウにTony Bliarというポスターが貼ってあったのと覚えている。Blairのaとiを入れ替えたらこうなるという遊び心を込めた批判の意思表示であった。

7月25日
 外国人労働者が増加してきているので、法務省が受け入れ環境の整備のために入国管理局を庁に昇格させることを検討していることを各紙が報じている。特に『日経』朝刊は「実習生では限界 小売り・外食 人で不足補えず」とか、ベトナム政府と介護人材1万人受け入れの計画で合意、インドネシアにも打診など、外国人受け入れに積極的な報道を展開している。問題は、日本にやってくる外国人には変化があるということではないか。1980年代は、路上でアクセサリーを売るイスラエル人が多かったが、いつの間にか姿を消した。その後、街頭で音楽を演奏する中南米の人たちの姿をよく見かけたが、これも最近ではあまり見かけない(こちらが夜遅く外出しないせいかもしれない)。日系ブラジル人の出稼ぎも減少傾向にあるそうである。今、多いのは中国人と東南アジア・南アジアの人たちだが、2020年が過ぎれば彼らの数も激減するだろうという見通しが芹沢健介『コンビニ外国人』(新潮新書)に登場するあるアジア人によって語られていた。もしそうなれば、入国管理庁がまた管理局に逆戻りということにもなりかねないので、関係する国・自治体の諸機関は外国人労働者の受け入れについての実態調査を実施し、また多文化共生を推進する広報活動に務めるべきであろう。

 横浜FCはアウェーでツエーゲン金沢と0-0で引き分ける。依然として3位を保っている。

7月26日
 『日経』は全般的な傾向として外国人労働者受け入れに積極的な論調の記事が多いが、この日の朝刊のコラム「大機小機」は「外国人労働者受け入れの是非」として、受け入れの理由である「人手不足」について、消費も国内総生産(GDP)もほとんど増えていない現状があり、需要が伸びていないのに供給体制を維持しようとしていることが問題であるという議論を展開している。需要が増えていないというのはその通りかもしれないが、だから供給体制を縮小せよという議論にはならない。

 オースティンの『マンスフィールド・パーク』を読み直し終えて、『エマ』に取り掛かる。

7月27日
 『日経』朝刊一面の下にあるコラム「春秋」欄では、「批判」ということについて論じている。批判とは▼自分の振る舞いが適切であるかどうかを顧みる作業・・・自分で自分の思考や言葉にツッコミを入れる批判精神こそ、「教養」であるという。「こんなことをやっていて、いいのだろうか?」という反省する能力が教養で、世の中をよくする作業は教養の持ち主にしかできない」という。改めて考えさせられる指摘である。

 同じく文化欄の「スペイン 描かれた音楽 十選(8)」では、ピカソの「バレエ『三角帽子』のための緞帳」の部分が紹介されていた。『まいにちスペイン語』応用編で昨年の10月と、今年の4月にその一部が紹介されたPedro Antonio de Alarcón, El sombrero de tres picos をもとにマヌエル・デ・ファーリャ(1876-1946)が作曲したバレエの上演のために描かれたものである。ピカソもこの作品を読んでいたらしい。
 三角帽子というのは、両脇と後ろを折り返しているために、上から見ると三角に見える帽子で、近世のヨーロッパでは軍人をはじめ、民間人の間でも流行したという(ルイXⅣ世やフリードリヒ大王がかぶっていた)。『三角帽子』は19世紀のはじめにスペインにナポレオンが侵入してくる直前の話で、ナポレオン戦争後は、この帽子は被られなくなってしまったという。しかし、一部では儀典用に被る場合があって、日本でも宮内庁の儀装馬車の御者が用いているそうである。
 そのナポレオンが被っていたのが二角帽子であるが、これは(我が国を含む)多くの国の軍隊の制帽として着用されたが、今では時代遅れになってしまったようである。そういえば、7月14日のパリ祭のパレードの先頭を行進するエコール・ポリテクニーク(理工科学校)の学生たちの制帽が二角帽子であった。

7月28日
 『朝日』朝刊の「ひもとく」のコーナーでは早稲田大学教授の都甲幸治さんが、先日亡くなったアメリカの作家フィリップ・ロスの作品を取り上げていた。あいにく、彼の作品は読んでおらず、映画化された『さよなら、コロンバス』を見ただけなのである。ロスは、一時期、英国の女優クレア・ブルームと結婚していたが、そんなことには都甲さんは興味がないらしい。

 同じく「著者に会いたい」のコーナーで、『日本の星名事典』をまとめた北尾浩一さんが紹介されている(日本の星名については、すでに紹介したことがある)。りゅうこつ座(アルゴー座)のカノープスについての「紀州の蜜柑星」、「メラ星」(千葉)、「酔いどれ星」(八丈島)などの名称があるという。
 この星についてはすでにふれたことがあるが、中国では南極老人星として知られ、南極老人は『西遊記』や『封神演義』にも登場する。野尻抱影の本で、南極老人が都に現れ、酒をたらふく飲んでどこかへ姿を消したという説話を読んだことがあるが、「酔いどれ星」と言われることと関係はないだろうね。

 『日経』の本郷和人さんの連載記事「日本史ひと模様」は山名時煕という三宝院満済を支えた幕府の宿老について取り上げている。満済の日記は室町時代の研究の基本史料の一つであるが、満済がいつも本当のことを日記に書いていたかどうかはわからないと、しごく説得力のある(身に覚えのある人も多い)議論が展開されていて、興味深い。

 『井伏鱒二全詩集』(岩波文庫)を読み終える。所収の「按摩をとる」という詩の舞台になっているのは甲州の下部温泉で、彼の小説「四つの湯槽」をもとに清水宏が映画化した『簪』(1941)の舞台でもある。身延山に近いので、その参拝者が宿泊することが多いようである。映画でも参拝の団体に按摩をとられてしまって、その他のお客に按摩が回ってこないというエピソードがあった。

7月29日
 『日経』朝刊の「名作コンシェルジュ」はフリッツ・ラング(1890-1976)の『恐怖省』(1944)を取り上げた。この作品はラングがアメリカに亡命後の第二次世界大戦中に制作されたもので、英国が舞台となり、レイ・ミランドが演じる精神病院を退院したばかりの男が国際的なスパイ組織の陰謀に巻き込まれるという物語で、グレアム・グリーンの原作に基づいている。筆者の芝崎幹郎さんは「悪夢的なサスペンス」と要約しているが、ドイツ表現主義を代表する作品の一つである『カリガリ博士』に精神病院が登場することなどを考えると、ジークフリート・クラカウアーが『カリガリからヒトラーまで』にまとめたワイマール時代のドイツの映画の歴史が要約されているとも言えそうである。  
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