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山内譲『海賊の日本史』(3)

7月28日(土)台風12号接近、昨夜遅く雨が降った後、午前中は降ることはなかったが、午後3時ごろになって雨が次第に強くなる。

 日本の歴史の中で、「海賊」は様々な姿を見せながら、史料の中にその活動を記されている。この書物は第1章では藤原純友、第2章では松浦党、第3章では熊野海賊、第4章では戦国大名たちの水軍と、比較的有名な海賊を個別に取り上げ、終章では古代から中世にかけての時代の変化の中で海賊像がどのように変化したかをまとめる。海賊が日本の歴史の中でどのような役割を演じ、またどのような遺産を我々の歴史の中に残したかを考察するのが本書の目的である。
 これまで、海賊が旅人や船を襲うだけでなく、彼らを保護することで収入を得ている場合もあったこと、平安時代の代表的な海賊とされる藤原純友がある時期までは海賊を取り締まる側にいたこと、海賊が当時の政治状況とのかかわりで考えられなければならないこと、松浦党が独特の結合形態をもつ武士の集団であり、平氏との結びつきが強かったこと、倭寇とは直接に関係がないこと、熊野海賊が熊野三山との結びつきが強く、熊野湛増の時代に、治承寿永の戦乱で源氏に味方したこと、さらに南北朝時代には南朝の有力な戦力であったことなどを見てきた。

 熊野三山は紀伊半島の南東の海(熊野灘)にそそぐ熊野川流域にあるが、熊野灘には船舶の停泊に適した入り江が数多く点在する。その中でも特に目立つのは潮岬の東方で熊野灘にそそぐ古座川でその河口近くの西向浦(和歌山県串本町)は小山(こやま)氏と呼ばれる海上勢力の本拠があったところである。小山氏は、鎌倉時代の巻頭の有力御家人下野小山(おやま)氏の一族がこの地域に定住するようになったものである。
 西向小山氏は熊野新宮との結びつきによりその地位を確保し、周辺の一族と連合し、活発な海上活動を展開した。その活動範囲は淡路島周辺や小豆島に及び、南北朝時代には南朝方の勢力として活動した。この時期、瀬戸内海西部で活動していた忽那氏などとともに、南朝方の海上ネットワークとでも言うべきものを形成していたことが知られる。

 一方、潮岬の西側の安宅庄(白浜町)を本拠としていた安宅氏は、山地に城砦を構えていたが、その領地を流れる日置川を通じて海と結びついてもいた。日置川の河口には川湊ができていたのである。安宅氏はもともと阿波国に所領を有していたが、鎌倉末期に海賊鎮圧のために紀伊に来住したのではないかと推測されている。このため、北朝方との結びつきが強く、幕府から淡路島周辺の海賊退治を命じられて出動したりしているが、この海賊は南朝方の勢力を指しているようである。なお、安宅氏は後には南朝方に転じて、阿波への出陣を命じられたりしている。

 その安宅庄よりもさらに上流の久木(白浜町)を本拠にしていたのが、西向小山氏の同族の久木小山氏である。久木小山氏は山間部を活動の場としていたが、海岸部にもいくつかの拠点を有していた痕跡があり、また山間部で造船のために材木の調達を行っていたという推測もある。さらに、鎌倉幕府の名を受けて紀伊水道における海賊の取り締まりを行っていたという文書も残されている。
 このような「山の中の熊野水軍」としての性格を持つ一族に色川氏がある。その本拠である色川郷は牟婁郡東部の山奥深くに位置していたが(現在の那智勝浦町)、木材には恵まれていたし、川を利用した交通も開かれていたようである。熊野地方の豪族の中では、このほかに鵜殿氏、塩崎氏、泰地氏なども海上活動を行っている。

 以上のことから、南北朝期位に、潮岬の西の日置川流域から東の新宮にかけての熊野灘沿岸に、その後背地の熊野山中を含めて、多くの海上勢力が存在していたことがわかる。その一部が、南朝からの催促を受けて遠く南九州まで進出して、その地の北朝勢力と戦ったのが、島津氏関係資料に記された「熊野海賊」ということになる。どの勢力がこの中に含まれていたかを確定するのは難しいが、活動時期や活動歴を考えると、西向小山氏が含まれていることは間違いないだろうと山内さんは論じている。鹿児島の東福寺城を攻撃した「熊野海賊」は、誇張はあるにせよ「島津軍をおびえさせるほどの大勢力であったことは間違いない。」(130ページ) 西向小山氏を中心とした熊野の海上勢力に、東瀬戸内海の勢力、そして西瀬戸内海の忽那氏をも巻き込んで、「数千人」という勢力が形成されたと考えられる。彼らは西日本各地の南朝方の海の領主の連合体であったが、それを島津氏の方で恐れと敵意を込めて「海賊」と呼んだと推測できるのである。

 以上は戦時における彼らの活動である。では、平時においては、海上活動を行っていなかったのであろうか。残されている史料が少なくて、断片的なものであるために、はっきりしたことは言えないが、那智山沖を航行する船舶から「海上々分高納」という名目で航行料を徴収していたこと、これを喜ばない「諸国廻船人」たちが室町幕府に迫って徴収をやめさせたところ、今度は那智大社から苦情が出て、撤回されたという経緯が記録されている。また瀬戸内海を航行する船舶の警護をめぐる文書も残されており、戦国時代までは瀬戸内海西部の村上水軍よりも、熊野水軍の方が瀬戸内海の水運や軍事を掌握していた可能性もあるという。

 なお、徳治3(1308)年から翌年にかけて、西国から熊野にかけての海賊が蜂起して幕府がその鎮圧を命じている文書があり、この事件の詳細はあまりはっきりしていないが、今後の研究の進展によっては思いがけない事実が浮かび上がってくるかもしれない。網野善彦はこの件について、「蒙古襲来後、西国の交通路支配を強化してきた北条氏によって海上交通上の諸権益を奪われ、活動を抑制された熊野山衆徒・神人を中心とする海上勢力の憤懣の爆発がこの蜂起の原因ではないかと述べている(「太平洋の海上交通と紀伊半島」)。」(138ページ)と論じているそうである。

 次回は第4章「戦国大名と海賊」についてみていく。これまで以上に身近な内容が述べられていくことが期待される。
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