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森本公誠『東大寺のなりたち』(5)

7月27日(金)曇り、台風の接近と関係があるのか、ないのか、蒸し暑い。

 東大寺は神亀5年(728)聖武天皇の皇太子であった基親王が満1歳の誕生日を目前に亡くなり、その菩提を追修するために造営された山房を起源とするといわれる。聖武天皇は即位当初、経史に基づいた政治を志向されたが、打ち続く災厄の中で仏教への傾倒を深められ、特に華厳経の教えに基づいて、諸国に国分寺と国分尼寺を建立し、大和の国分寺である東大寺に金銅の大仏(廬舎那仏像)を造立することを計画された。
 天平21年(749)2月に、大仏鋳造に必要な黄金が陸奥国で発見されたという知らせが届き、聖武天皇は喜んで、自らを「三宝の奴」と自称する宣命を発せられただけでなく、墾田の私有を許可される意向を表明された。さらに、出家して譲位される意思を固められたのである。

 この年7月2日に、聖武天皇は大極殿において正式に譲位の宣命を宣され、阿倍内親王が即位された(孝謙天皇である)。4月に天平感宝と改められていた年号は、さらに天平勝宝と改元された。
 直後の7月13日、東大寺にとっても重要な決定がなされた。諸寺墾田地上限額の制定である。『続日本紀』によると、大倭国国分金光明寺(東大寺)4000町、元興寺が2000町、大安寺・薬師寺・興福寺・大倭国法華寺と諸国国分金光明寺が1000町、弘福寺・法隆寺が500町、諸国法華寺(国分尼寺)が400町であった。
 この決定を受けて、東大寺は早速墾田の占定にとりかかったが、おそらくは決定そのものが活発化していた寺院の経済活動に呼応して行われたものと考えられる。個人が所有することのできる墾田の上限は500町であったから、これは開墾において寺院が果たす役割に大きな期待が寄せられていたためであると考えられる。
 「原野の開墾を促進させ、広大な水田を確保するには、大規模な灌漑設備が必要で、それには資力と労働力が不可欠となる。そこで聖武天皇は、多くの人が集まり精神的な帰依所となる寺院を創設し、原野の開墾のような役割も寺院にもたせ、それによって仏法の興隆と民心の安定を図る、そうしたことを意図したのであろう。その根拠はかつての行基集団の活躍にある。今風にいえば、墾田を個人による経済活動の範囲に止めないで、大規模な展開が望める法人事業に開放するようなものである。」(84ページ)

 ここでは奈良にある東大寺、元興寺、大安寺、薬師寺、興福寺と総国分尼寺である法華寺が1000町を越える墾田の私有を認められたが、その中でも東大寺の4000町は別格と言える広大さである。(後に南都七大寺といわれるのは東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺であり、西大寺はこの時点ではまだ建立されておらず、法隆寺はこの時点ではまだ評価が低かったということらしい。)
 それにしても東大寺の4000町というのは他の大寺院に比べても突出している。その理由を森本さんは2つのことに求めている。一つは、諸国の国分寺には20人の僧を置くことになっており、それらの僧侶の教育を行う場として考えられるのが問う大事だということである。したがってそれらの僧侶を教育する費用が捻出される必要がある。
 もう一つは、東大寺に所属する有能な僧侶に在家信者である優婆塞・優婆夷をつけて新たな占定地に赴かせて、大規模な開発を行わせることで、災害のために本籍を離れて流亡することになった民衆に生業を与えることができるからである。あるいは行基の死後、彼が自分に従う集団に身に着けさせた技術・技能を活用するという意図もあったかもしれない。
 占定された土地は一定期間内に開墾されてしまわないと、墾田として私有されないように規定されていた。したがって、開墾を迅速に進めるだけの体制を寺院の側でも整備していなければならない。

 この時代の寺院と僧侶は国家によって管理され、規制されていた。各寺院から国司に提出される僧尼帳(綱帳)によって国家が認定した官度僧についてはその数や動きを把握できているはずであったが、実際には2割程度の僧の名籍が不備であったとされる。しかし、律令国家がもっと重大な問題と考えたのは官許を得ずにひそかに得度をした私度僧たちである。養老元年(717)に元明天皇の名で発せられた詔には次のような理由で私度僧たち、彼らを率いている行基の行動が非難されていた。
 第一に、彼らは納税や労役の義務を逃れるために勝手に出家したとみなされていた。第二に、僧侶は寺院の中で仏教の学習と伝承とに励むべきであったが、私度僧たちは市中に出て説法をしている、第三に、病人の家を訪問して治療行為を行っていることが問題視された(僧尼が医療行為を行うこと自体は禁止されてはいなかったので、要するに無資格医療と見なされたということであろう)。
 しかし、天平3年(731)に聖武天皇はその詔で、行基たちの集団に寛大な措置を取ることを述べられた。これは、行基集団を利用する方が朝廷にとって得策だ(現実に、大仏造立など行基集団の協力により成功した事業は多い)と判断したという考えもあるが、森本さんは聖武天皇の仏教理解が進んで、寺の中でお経を読んでいるだけが仏教ではなく、土木事業や医療活動を通じて社会のために貢献することも仏教の趣旨にかなうものだと考えられたからであると論じている。

 行基の「弟子」たちとして、問題にされているのは、実際は優婆塞、つまり三宝に帰依して五戒を守りながら、いずれは出家したいと考えている在俗の男性信者(女性信者は優婆夷)たちであった。優婆塞・優婆夷は3年以上の修行など、一定の修行を積めば得度の機会を与えられるはずであったが、律令法の規定の運用が厳しく、いつまでたっても得度できないものが少なくなかった。法令上の建前から言えば、これでも問題はないはずであったが、天変地異が続く時代に、僧侶は経典を暗唱したり、仏事を行ったりしているだけでいいのかと聖武天皇は考えられたようである。

 天平13年(741)7月から恭仁京造営の一環として、木津川を渡る橋の仮設工事が行われたが、ここでは国家が徴発した役夫ではなく畿内・諸国から集まってきた優婆塞らを使役した。『続日本紀』によれば、橋が完成すると、彼らは得度が許され、正式の僧尼になったという。この時に得度を受けて沙弥となった優婆塞の一人が、後に大安寺伝灯法師兼近江大国師となった行表で、行表は後の最澄が近江国分寺で得度を受けたときに師主となった。そのため最澄の著である『内証仏法相承血脈譜』所収の「大日本国大安寺行表和上」の略伝にこのことが記されているという。

 こうして国家的な事業のために一定期間働けば得度の資格が得られるという新しい道が開けた。その期間は木津川の橋の工事が先例となっておよそ4か月とされるようになったようである。得度資格が得られても、出家できるとは限られないが、こうして出家の道が広がったことはたしかであり、そのような措置の背後には、仏教の社会貢献の意義を認めようとする聖武天皇の意向が働いていたことは否定できないだろう。
 話題が、少し東大寺からそれてきたようにも思われるが、次回では、また東大寺と国分寺の関係に戻ることになる。  
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