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ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(6)

7月26日(木)曇り、昨日から少し気温が下がったように思うが、依然として暑い

 インドのヒンズー教の神である月天の額を飾っていた黄色いダイヤモンド=月長石は、1799年の英軍のセリンガパタム襲撃の際に英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に入り、彼とともに英国に渡ってきた。この宝石をめぐっては人間の世が続く限り、3人のブラーフマンが交代しながら守り続けており、宝石を手にする者だけでなくその係累にまで災いが及ぶであろうという言い伝えがあった。ハーンカスルはそのような言い伝えは迷信であると言い続けてきた一方で、どのようにして宝石を入手したかについては一切口にしなかった。
 この宝石は1848年にジョンの妹の娘(つまり姪)であるレイチェル・ヴェリンダ―にその18歳の誕生祝として遺贈され、誕生祝のパーティーの夜に姿を消した。その後、不思議な事件が続き、殺人まで引き起こされた。ジョンの遺言に基づいてヴェリンダー家に宝石を届けた(ジョンの甥で、レイチェルの従兄である)フランクリン・ブレークは関係者の証言を集めて、事件の真相を復元・記録しようと考える。そこで、セリンガパタムとジョンについて記した記録に続き、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジが最初の証言の文書を執筆することになる。
 1848年の5月24日にベタレッジは、翌日フランクリンがヴェリンダー邸を訪問するとヴェリンダー卿夫人から知らされる。フランクリンは(当時の英国の生年としては珍しく)ヨーロッパで教育を受け、その後は大陸各地を放浪していたが、最近、英国に戻ってきてロンドンの父親のもとで過ごしていたのである。
 25日、ヴェリンダー卿夫人とレイチェルは、フランクリンの到着は夕食時になると考えて、外出していたが、旅回りの手品師らしい3人のインド人の訪問を受ける。彼らは邸で芸を披露したいといったのだが、ベタレッジは主人たちが留守なので断る。ところが、彼らが帰った後で、ベタレッジの娘のペネロープがあのインド人たちは怪しげなふるまいをしていたので、警察に逮捕させた方がいいといってくる。ペネロープがこっそり覗き知ったところでは、インド人たちはフランクリンが「あれ」をもってやってくるかどうかを占っていたというのである。ベタレッジはフランクリンにこの話をするまでは何もしないようにと言って、ペネロープを落ち着かせようとする。彼女が言ってしまった後、今度は台所係の女中のナンシーがやってきて、下働きの女中のロザンナ・スピアマンが夕食の席にやってこないので、呼びに行かなければならないという。そこでベタレッジは、自分が言って連れてこようと言ってナンシーを夕食の席に戻す。

 ロザンナはこの事件では重要な役割を果たす人物の1人である(ということはいずれわかる)。彼女はヴェリンダー家では新参の召使である。この事件の4か月ほど前に、ヴェリンダー卿夫人はロンドンに滞在していたが、矯正施設(Reformatory)を訪問したことがあった。刑務所から出ても行き所がなくて、また悪の道に逆戻りしそうな身寄りのない女たちを誰か1人でも助けようというのである。その意図を知った婦人看守(matron)がヴェリンダー卿夫人に雇ってほしいといって薦めたのがロザンナであり、彼女は一度だけ犯した盗みの罪のために刑務所に入っていたのであった。
 中村訳では「奥さまはロンドンにおでかけになって」(39ページ)としているが、この事件の4か月前というと1月か2月であって、この時代の英国では社交シーズンであり、上流階級の人々はロンドンに集まるのが常であった。だからわざわざ出かけたわけではない。いつも通りに出かけたのである(原文はmy lady had been in London)。Reformatoryを中村は「感化院」と訳していて、これは間違いではないが、公設であろうと、民営であろうと、矯正施設一般をさしてよぶことばである。matronを中村さんは「保護司」と訳しているが、保護司は犯罪の予防のために民間人が無給で務める仕事であって、ここで使うのは不適当であろう。それからnot being the sort that get up the Companies in the Cityという個所を中村は「ロンドンの商業区で会社をつくる柄ではないし」と訳しているが、これは前後の文脈から見てどうも唐突である。the Cityというのは中村が受け取っているとおり、ロンドンの「シティー」であろうが、Companiesの方も大文字が使われているのだから、大文字で使われる場合の意味を探すべきであった。実は、どうもはっきりしないのだが、「シティーの警察を騒がせるような種類の事件も起こさなかったし」くらいの意味ではないのか。
 とにかく女看守はロザンナが機会さえ与えられれば、立派に更生する人間だと請け合ったので、ヴェリンダー卿夫人は彼女を召使として雇うことにしたのであった。そしてヴェリンダー邸に連れてこられて、下働きの女中として働くことになった。彼女の身の上を知るものは、ヴェリンダー卿夫人以外には、ベタレッジとペネロープの2人がいるだけであった。彼女を雇う際に、ヴェリンダー卿夫人はベタレッジにも相談したのである。
 こうしてロザンナはほかの召使と区別されることなく、同じように働き、体が弱くて、時々発作に襲われたりはしたが、自分の与えられた仕事は不平も言わずに、よく気を付けて手際よくやった。しかし、なぜかペネロープ以外の仲間の女中たちとはうまくいかなかった。ペネロープもロザンナと親しかったわけではなかったが、いつも親切にしてやっていた。

 ロザンナが女中たちの中で孤立している理由について、ベタレッジはいろいろと推測する。彼女は顔が醜いし(no beauty)、片方の肩がもう片方よりも大きく、そのような顔つきと体つきなので、他の女中たちから妬みを買うことはなかったはずだという。彼女は無口で、いつも一人ぼっちでいた。手の空いたときでも仲間とおしゃべりをするでもなく、本を読んだり手を動かしたりしていた。外出日には、たいていは静かにボンネットをかぶり、一人きりで出かけていた。ほかのものとはけんかをしなかった代わりに、いつも少し距離を置いて接していた。初めて彼女が邸に来た時に、他の女中たちは「気どっている」(Rosanna Spearman gave herself airs)と言っていたという。
 ベタレッジはロザンナが美しくないと言っているが、どうもご本人はそうは思っていなかったらしいことが後でわかる。この2人以外の証言を求めるべきであろう。後でわかるといえば、彼女の外出先の一つも後でわかる。そして彼女が全く孤独でなかったこともわかるのである。

 Our house is high up on the Yorkshire coast, and close by the sea. We have got beautiful walks all round us, in every direction but one. That one I acknowledge to be a horrid walk. It leads, for a quarter of a mile, through a melancholy plantation of firs, and brings you out between low cliffs on the loneliest and ugliest little bay on all our coast. (Penguin Popular Classics, p.32)
中村訳:「ヴェリンダー家のお邸は、ヨークシャ海岸の高台にあって、海がすぐ近くにあった。美しい小路が四方にのびていたが、ただ一本の道だけは美しいとは言いかねる。不気味な路なのである。この道は、暗い樅の林のなかを1マイルもつづいて、やがて、このあたりでもいちばんもの寂しい、見るかげもない、小さな入り江にのぞんだ低い崖のあいだに出る。(41ページ)
 中村訳で明らかに間違っているのは、a quarter or a mileを1マイルとしていることで、これは4分の1マイル、つまり約400メートルである。

 以上の描写だけでも不気味だが、その後の描写はもっとすごい。「そこから砂丘が海にむかって傾斜して、波の中に消えているところに、二つ向き合って突き出た岩の岬がある。いっぽうを北の岬、一方を南の岬と呼んでいる。この二つの岬と岬の間に、季節季節で大きく移動する、ヨークシャ海岸でも他に類を見ない恐ろしい流砂がある。潮の変わり目になると、はかりしれぬ下のほうでなにごとかが起こり、それが流砂の全面を肉眼でもそれとわかるほどはっきり揺さぶりふるえさせる。そのため、この地方の人々は『ふるえる砂』と名づけて呼んでいる。」(中村訳、41‐42ページ) 「流砂」と訳されているのはquicksand,「ふるえる砂」はthe Shivering Sandである。恐ろしい場所なので、近寄ろうとするものはほとんどいない。近くのコブズホールという漁村の子どもたちでさえ、ここへ遊びにこようとはしない。ところが、ロザンナ・スピアマンだけは、この辺を散歩するのが好きなのである。(コブズホールに彼女が心を許した友人がいるという事情もあるが、その話はおいおい出てくる。) それでベタレッジはロザンナを連れて帰るために、このあまり気味のよくない道を急いで歩く。

 樅林の中ではロザンナを見つけることができなかったが、砂丘を抜けて海岸に出てみると、ロザンナがいた。小さな麦わら帽子をかぶり、いつも着ている粗末な灰色の外套を着て、たった一人、流砂と海を眺めていた。
 ベタレッジが近づくと、ロザンナははっとして顔をそむけた。これは召使を取り締まる執事として見逃しがたいことである。ロザンナが泣いていたことを見て取って、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から頂いたという大型のハンカチbandana handkerchiefを取り出して、ロザンナに、一緒に海岸の斜面に腰を下ろそうという。涙を拭いてやるから、泣いていたわけを話しなさいと、ロザンナに話あっける。
 こうして二人は腰を下ろして、ベタレッジはロザンナの涙をぬぐってやろうとするが、まごまごしているうちに、ロザンナは自分の粗末なハンカチで涙を拭いてしまう。彼女はなぜ、一人で泣いていたのだろうか。
 中村は「麦わら帽子」と訳しているが、原文はstraw bonnet で我々が見るようなstraw hatとは違う種類の帽子のようである。ベタレッジは何とかしてロザンナの心を開かせ、他の使用人と心が通じるようにしてやろうと思っていて、そのことはロザンナもわかっているはずなのだが、どういうわけか、うまくいかない。世の中のあらゆることが善意で解決されるというわけではないし、時として何が善意かわからないことがありうる。読み進むうちに(すでにナンシーに対する態度を見てそう思った方もいるかもしれないが)、ベタレッジの俗物ぶりはよくわかってくるはずである。相手の善意はわかっているが、その善意が見え透いて見えるほどの俗物だから、余計にロザンナの方が信用したくない気持ちにさせられているのかもしれない。(俗物や偽善者が悪いというのは一面的な見方であって、偽善者こそが19世紀英国の繁栄を築いてきたともいえるのだが、そういう議論は、下層階級のはみ出し者であるロザンナには通用しないだろう。)

 さて、ベタレッジとロザンナはどのような会話を交わすのか、また、話の最中に新たな登場人物が出現するが、それはだれだろうか。それらはまた次回に。
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