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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子/藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』

7月24日(火)曇りのち晴れ、依然として暑い

 河出書房新社から池澤夏樹さんの監修で『須賀敦子の本棚』という叢書の出版が始まり、その最初の巻としてダンテの『神曲』の最初の部分(『地獄篇(第1歌~第17歌)』が刊行された。須賀敦子(1929‐98)が大学の授業とは別に私的に『神曲』の講座を開いていたことは知っていたが、その受講生であった藤谷道夫さんが、須賀の死後に残された彼女が40代の頃に訳していた『神曲』の翻訳ノートをもとにしてまとめ直したのがこの本である。須賀さんのノートは彼女の理解がまだ十分ではなかった段階で作成されたものであり、彼女自身そのことによく気づいていたために、筐底深くにとどめられていた。しかし、須賀がダンテの研究にも取り組んでいたことを明らかにするためにこの本を刊行するのであり、ノートは『煉獄編』まで作成されていたが、『地獄篇』の後半になると間違いだと思われる部分が多くなるので、前半だけの出版とすることになった。その間の事情は藤谷さんが書いた「はじめに」に説明されているので、詳しくは述べない。『神曲』に限った話ではないが、翻訳は作者と翻訳者の個性のぶつかり合いであり、ただ正確に文意を伝えればいいというものではない。須賀のノートの誤りを訂正することによって、彼女の個性を消してしまったのではこのシリーズの趣旨に背くことになるということであろう。

 このブログでは2014年6月21日から2017年の12月13日まで足掛け4年をかけて、原基晶さんの翻訳による『神曲』をとりあげた。その中では山川丙三郎訳と、壽岳文章訳、特に後者についても時々触れていた。ここで新たに須賀・藤谷訳を取り上げるのは、これらとは違った訳業と解釈に触れることによって、『神曲』への理解を深めるとともに、改めてこの作品のすごさを味わいなおそうと考えているからである。

 1300年4月4日(月曜日)にこの叙事詩は始まる。

 人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき
私は正しき道の失われた
暗い森の中をさまよっていた。
(11ページ)
 昨年の10月にNHKラジオで放送された『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」で、この叙事詩の冒頭の9行が取り上げられていたので、そのテキストとその際にとったメモを参考にしながら、この翻訳を見ていきたいと思う。
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritorvai per una selva oscura
ché la diritta via cra smarrita.
「原文で読む古典の楽しみ」の講師であった白崎容子さん(『須賀敦子の本棚』3として予定されているナタリア・ギンスブルグ『小さな徳』を翻訳することになっている)は、『神曲』の各行がすべて11音節からなり、3行ごとにABA BCB CDCと鎖の輪のように順に脚韻が連なっていく「連鎖韻」(rima incatenata)で構成されていると説明した。ただし、白崎さんは触れなかったが、各歌の最後は、三行詩ではなくて、一行でまとめられており、例えば『地獄篇』第1歌は45の三行詩と一行の136行から構成されている。これを『地獄篇』第1歌から『天国篇』第33歌まで、100歌つづけているのだからすごいとしか言いようがない。

 テキストと(不足している部分は辞書で調べて)言葉の意味を調べておくと、mezzoは「真ん中、なかば」、camminはcammino「道のり、歩み」、mi ritrovaiはritrovarsiの直接法遠過去1人称単数の形で、「たまたま居合わせる」、per - は「~のなかに」、selvaは「森」、oscuroは「暗い」、chèはperchéで「なぜなら」、dirittoは「まっすぐな;(比喩的に)正しい」、smarritoは動詞smarrireの直接法近過去1人称単数で「見失った」と注記されている。

 それでは、須賀と藤谷さん以外の翻訳では、この冒頭の部分はどのように訳されているか。白崎さんはこの個所を
人生の歩みのなかばで
進むべき道を見失い、気がつくと
私は暗い森の中にいた。
と訳していた。
 また、原基晶さんは
我らの人生を半ばまで歩んだ時
目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。
まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。
(原訳『地獄篇』、26ページ)と訳している。あいにく、壽岳文章訳は原訳の『煉獄扁』まで進んだ時に参考にしようと思って『煉獄篇』を入手しただけであるが、粟津則雄『ダンテ地獄篇精読』(筑摩書房、1988)が壽岳訳が最も優れているとして、壽岳訳を使って書き進められているので、そこに引用されている冒頭の詩行を引くと「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた」(粟津、3ページ)となっている。

 この4人の翻訳を比べてみると、最初の1行をめぐっては須賀≂藤井と壽岳がnostra vitaを「人の世」、白崎が「人生」、原が「我らの人生」と訳し、解釈に対立がある、つまり叙事詩の発端となる1300年4月の復活祭前夜の出来事が「人の世」=13000年あるといわれる人類の歴史の中での6500年目という中間点と位置づけられるのか、ダンテの人生の中間点と位置づけられているのかという解釈上の対立があることがわかる。 ダンテが「私の」ではなく「我々の」という所有形容詞を使っているのはvitaがダンテ自身だけのものではないと考えられているということであるが、『旧約聖書 詩編』その他の章句を引用して、この時代には人生は70年と考えられていたと、「人生」派は反論するだろう。

 『神曲』のこの後の展開を読んでいっても、一方で終末論的に受け取れる箇所があり、もう一方で神の人間に対する救済計画の長期性を強調する部分もあって、どちらとも決めがたい。その意味では「人の世の」という訳し方は、人間の歴史という意味だけでなく、人生という意味も包含すると受け取れるので、こちらのほうが無難ではないかと思われる。

 「暗い森」について、個々人に立ち現れる暗い人生を意味するとともに、具体的にはフィレンツェをはじめとするトスカーナ地方(ひいてはイタリア)を寓意していると注記されている。この点は、原基晶さんがその『天国篇』の「あとがき」で書いていることと、対立するので、注意する必要がある。原さんによれば、1300年ごろには、フィレンツェの周辺には森はなかったという。「一般に、都市に自然が帰ってくるのは、化石燃料が大量に使用される現代になってからです。」(原訳『天国篇』、652ページ) この森が植物学的にどのような森であったのかというのも知りたいところだが、インターネットで調べても、イタリアには自然林はほとんど残っていない、むかしからの植生が残っているところはまれであるという。では、どこからダンテが森のイメージを得たかというのも、興味ある問題である。

 個人的なことを書くと、私が詩を書き始めた一つのきっかけが中学校の教科書に金子光晴の「しぐれた林の奥で/かつこうがなく。」という書き出しの「かつこう」という詩(清岡卓行編『金子光晴詩集』岩波文庫版、所収448‐450ページ)を読んだことである。とは言うものの、ダンテの『神曲』の出だしの暗い森と、金子光晴の「かつこう」という詩の林を重ね合わせることにはかなりの無理がある。しかし、どうしても重ね合わせたいところがあって、金子は過去に自分が接した女性たち、あるいは一緒に遊びに出かけたりした悪友たちとの思い出を引きずりながら、森の中をさまよっているのだが、ダンテもそうではないのかなどと、考えてしまう。

 136行ある、『地獄篇』第1歌の最初の3行だけでブログを終わらせてしまうのは、先が思いやられるので、大急ぎで次の6行についてまとめると、ダンテは森の中で迷っていたこと、森の恐ろしさ、それ以後の経験を思い出すのは苦痛ではあるが、しかしよいことも経験したので、とにかく語っていこうと歌う。
 さらに10行目で
私はあまりにも眠かったので
(11ページ)と自分が陥っていた眠気について語る。藤谷さんは「眠りはキリスト教の伝統において精神の眠りを意味する。神によって生かされているのではなく、自分自身の力だけで生きていると錯覚する高慢さは、眠りで表される」(19ページ)と注記している。また粟津さんはダンテが「どうしてそこへ迷いこんだか、はきとはわからぬ。ただ眠くて眠くてどうにもならなかった。まことの道を踏み外したあの時は」(既に断ったように、壽岳訳:10‐12行)と書いているように、自分自身の道からの逸脱を問題にしながら、他者の悪についても目を向けていることに注目している。つまり、詩人自身が客観的な観察者ではなく、叙事詩の展開と積極的にかかわる存在であることにこの作品の特徴を見ている。鋭い洞察である。

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