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『太平記』(220)

7月23日(月)晴れ、依然として暑さが続いている

 暦応元年(南朝延元3年、1338)正月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家が率いる大軍が、鎌倉の足利方の将兵を追い散らしたのち、さらに西上したが、敗れた足利方も軍勢を集めてその後を追った。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は、土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。京都の足利方は、高師泰の進言により、師泰を大将として、顕家軍を近江と美濃の坂出迎え撃った。師泰は、嚢砂背水の故事を踏まえて、黒地川を背にして布陣した。顕家軍は、進撃して越前の新田義貞の軍と合流すべきところを、なぜか黒地川の敵と戦わず、越前へも向かわずに進路を伊勢に取り、吉野へ向かった。(以上19巻、この記事は必ずしも史実を反映しているとは言えないのではないかと本郷和人さんは論じている。青野原で高師泰軍と土岐頼遠軍に挟み撃ちにされて、北畠顕家軍が敗走したという可能性もある。)
 一方、越前の新田義貞は次第にその勢力を拡大していったが、暦応元年5月に越前の足羽川流域一帯に砦を築いて抗戦を続ける足利一族の越前守護斯波高経の足羽七城と呼ばれる城砦軍に攻撃をかけたが、斯波の軍勢に退けられた。(以上20巻)

 さて、越後は新田の本領である上野と接し、新田一族が充満しているうえに、元弘以後、帝からの恩賞として義貞の支配下におかれ、その支配が長く続いてきたので、この国の地頭、御家人は義貞の政治に従う期間も長くなった。義貞がいよいよ京都に攻め上ろうとしているという情報を得て、新田一族の大井田氏経、同じく義政、中条入道(新潟県長岡市中条に住んだ武士)、鳥山左京亮(新田一族の鳥山家成か)、風間信濃守、禰智掃部助(禰津、長野県東御市祢津出身の武士)、太田滝口(群馬県太田市出身の武士か)をはじめとして、その勢合わせて2万余騎、7月3日、越後の府(こう、新潟県上越市国府の辺)を発って、越中の国に進撃したが、足利方の越中の守護であった普門俊清が、国境にまちうけて、防ぎとめようとした。しかし、俊清に味方するものもなく、数において劣勢であったので、多少の戦死者を出し、松倉城(富山県魚津市松倉にあった山城)に退却し、そこに引きこもった。

 越後勢は、深追いせずに、すぐに加賀国へと向かう。足利方の加賀守護である富樫高家(石川県金沢市富樫に住んだ武士)がこれを聞いて、500余騎を率いて、阿多賀(小松市安宅町)、篠原(加賀市篠原町)の辺で迎え撃とうとする。これも、新田方に対抗できるような兵力ではなかったので、富樫の率いる兵が200余騎討たれて、富樫は奈多城(小松市奈谷町にあった城)に引きこもった。

 越後勢は越中と加賀における2度の合戦に勝利をおさめ、北陸地方の足利方は恐れるに当たらないと思った。そのまま、すぐに越前へと進撃すればよかったのであるが、ここから京都までは、これまでの長年の戦闘で土地が疲弊し、人々も疲れているので、兵糧がないだろうと考えて、加賀国にしばらく滞在して今後の兵糧を用意しようとした。そのため今湊の宿(白山市美川にあった宿場)に10日以上滞在した。その間、剣(白山市の金釼宮)、白山(白山市の白山神社の本宮、白山比瑪神社、「ひめ」の「め」は本来は口扁に羊という字を用いる)、その他各地の神社仏閣に押し入って、仏神のものを略奪した。「霊神怒りを為せば、災害岐(ちまた)に満つ」(岩波文庫版、第3分冊、351ページ)という言葉がある。越後勢の悪行を見ると、この度義貞が都を奪回するという大事業を成し遂げるのはどうであろうかと、前兆が現れる前に結果を洞察する人は、ひそかにこの言葉を思い出していたのであった。

 越後勢はすでに越前国河合(福井市川合鷲塚町の辺)に到着したので、義貞軍はいよいよ強大になり、足羽城を押しつぶすことは片手でもできるような簡単なことであると、人々はみな考えたのであった。斯波高経はというと、足利一族の一員としてその結束を守る決心は固いというものの、敵の手を逃れた小さな平城に、300余騎で立てこもっているが、その周囲四方を囲んでいる敵は3万余騎、籠の中の鳥が雲を恋い、水がないところにいる魚が水を求めるという言葉に譬えられるような状態である。どこまで斯波が敵の攻撃を持ちこたえられるか、敵はこれを見くびって憐れみ、味方はそれを言ってしまえばおしまいになると口を慎む様子である。

 この月の21日には、黒丸城(福井市黒丸町にあった)に攻撃をかけようと、城の外側を守る堀溝を埋めるために草を3万余荷、国中の人夫を動員して持ってこさせ、楯となる板3,000帖を作らせて、様々の攻撃の支度を整えていた折に、吉野の後醍醐帝から、勅使が遣わされた。そして伝えられたのは、「新田義興、北畠顕信以下の南朝軍が、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)に立てこもっているが、京都を占拠している足利方が数を頼りにこれを包囲している。城中の糧食が乏しくなっていて、兵は疲れている。とは言うものの、将兵たちは北国から援軍が上洛してくるということだけを頼りにして、梅酸の渇を忍んでいる。もし新田軍の出発が延引すれば、男山の南朝軍の敗北は必至の情勢である。天下の安危はこの一戦にかかっている。越前での戦闘はこの際取りやめにして、すぐに京都へと向かって戦ってほしい」という仰せである。しかも帝自らしたためられた書簡であった。
 新田義興は、すでに徳寿丸として登場している義貞の次男である。義貞の長男義興は金ヶ崎城の落城の際に自害しているので、義貞の後継者ということになる。北畠顯信は親房の次男、顕家の弟。どちらもまだ十代のはずであるから、軍隊を指揮する実力はない、名目的な大将であろう。誰が実質的な指揮を執っていたのかは『太平記』を読む限りではわからない。これに対し、包囲している足利軍の指揮官は後を読んでいくとわかるが、高師直である。

 義貞は勅書を拝見して、「源平両家の武臣は、朝廷のために代々大きな功績を立ててきたが、帝が直接お書きになった勅書を下された例を聞いたことはない。これは新田家が子々孫々に伝えるべき名誉である。ここに至って、命を投げ出して戦わなければ、いつ戦う時があるだろうか」と、足羽の包囲戦を後回しにして、京都への進発を急ぐこととなった。

 新田義貞とすれば、金ヶ崎での敗北の屈辱を晴らし、斯波高経を殲滅する絶好の機会であったのだが、帝自らの要請を受けては致し方がない。この種の間の悪さというか、運の悪さ、あるいは判断のまずさというのが『太平記』の新田義貞には付きまとっている。義貞の実像がどういうものであったのかは定かではないが、『太平記』の作者がそういう不運や判断の悪さを義貞にかぶせていることは否定できない。斯波高経のほうは辛くも虎口を逃れたということである。さて、これからの展開はどうなるか、それはまた次回。 
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