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日記抄(7月16日~22日)

7月22日(日)晴れのち曇り、暑さが続いている

 暑中お見舞い申し上げます
今年は例年にない暑さですが、皆様が、お元気でこの暑さを乗り切られるように願っております。

 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 NHKラジオ『まいにちフランス語』テキスト7月号に映画『エヴァ』の紹介記事が出ている。ジェームズ・ハドリー・チェイスの小説『悪女イヴ』の映画化で、盗作によって名声を得た作家が、娼婦エヴァに人生を狂わされていくという物語、1962年にジョセフ・ロージー監督(1909‐84)がジャンヌ・モロー(1928‐2017)をエヴァに起用して映画化している(『エヴァの匂い』Eva)。ロージー映画の常連であるスタンリー・ベイカー(1928‐76)が主人公の作家を演じていたほか、ヴィルナ・リージ(1936‐2014)、ジョルジョ・アルベルタッツィ(1923‐2016、『去年マリエンバートで』が出演作として有名だが、ロージーの『暗殺者のメロディ』にも、メキシコの画家のシケイロスの役で出演している)といった配役には見ごたえがあった。今回は、ブノワ・ジャコー監督がメガフォンを取り、イザベル・ユペールがエヴァを演じている。『エヴァの匂い』は昔、京都の祇園会館で見たことがあり、原作も読んでいる。今回の映画化は、登場人物の名前をはじめ、いろいろな点で、原作とも、1962年の映画化作品とも違いがあるようで、見比べてみるのも面白そうだ(とは思っているのだが、この暑さでなかなか見に出かけられない)。なお、1962年版ではヴィルナ・リージの美しさが目立っており、この作品の頃の彼女が一番きれいだったという意見が少なくないことも付記しておく。

7月14日
 NHKラジオ『朗読の時間』で壷井栄の『二十四の瞳』を放送しはじめている。朗読するのは香川県出身の藤澤恵麻さんであるが、『二十四の瞳』の舞台は香川県といっても小豆島である。小豆島には50年近く前に、その頃勤めていた会社の慰安旅行で出かけたことがあるが、四国に初めて出かけたのはそれから20年ほどたってのことである。

7月15日
 青柳碧人『晴れ時々、食品サンプル ほしがり探偵ユリオ』(創元推理文庫)の中に、「ヌーベル・バーグの巨匠、アラン・レネ」(106ページ)という表現があるが、これは厳密にいえば誤りである。戦後のフランス映画の中では、ドキュメンタリー映画から劇映画に進出した監督(一括して「セーヌ左岸派」と呼ばれる)と、映画評論雑誌『カイエ・デュ・シネマ』から映画製作に進出した監督とが新風を巻き起こし、日本ではこの2つをあまり区別せずにヌーベル・バーグと呼んだが、厳密な意味でのヌーヴェル・ヴァーグは後者のみである(『カイエ・デュ・シネマ』の執筆者の中でも、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、ジャック・リヴェットの5人のみが相当する)。アラン・レネはドキュメンタリー出身であって、『カイエ・デュ・シネマ』とは関係がない。逆に、フランソワ・トリュフォーがインタビューでエッフェル塔への愛着を語っていることに示されるように、『カイエ・デュ・シネマ』派の映画作家はパリでもセーヌ右岸のほうに愛着があるようである。

7月16日
 『日経』の朝刊に中央教育審議会の将来構想部会長である永田恭介さんに「高等教育の将来像」を尋ねるという記事が掲載されていた。現在の日本の大衆化し、多様化した高等教育の「将来像」をひと口にこたえるというのは至難の業なのであって、インタビューとは別にまとめられた「20年後の大学像 試行錯誤で示せ」という記者のコメントのほうが的を射ているように思われた。もし、それが狙いだったとすれば、かなり意地の悪い記事である。

7月17日
 『日経』朝刊に作曲家の中村節也さんが「作曲家・賢治の宇宙音感」という記事を書いていた。宮沢賢治は音楽が好きで、自分でもチェロを演奏したりしたが、花巻農学校時代には自分で作詞作曲した歌を生徒たちに歌わせたりした。賢治は楽譜が読めなかったので、彼の全集に収録されている作曲作品の楽譜は、歌についての関係者の記憶を頼りに採譜されたものだという。中村さんの専門家としての知見を駆使して、賢治作品の独特なリズムや音階について分析されているのが興味深かったが、賢治の「星めぐりの歌』(あかい目玉のさそり、ひろげた鷲のつばさ・・・)は、『銀河鉄道の夜」(アニメーション版)をはじめ、かなり多くの映画やTVドラマで使用・編用されているので、ご存知の方も多いのではないか。梅棹忠夫がこの歌が好きで、鼻歌で歌っていたという逸話を藤本ますみさんが書き留めている。考えてみると、賢治も梅棹もエスペランティストなのである。

 『朝日』のコラム「天声人語」では漫画『キングダム』を取り上げて、「ときは紀元前3世紀の春秋戦国時代…」と書き始めているが、「春秋戦国時代」よりも、「戦国時代の終わりごろ」のほうが表現として適切だろう。

 ジェイン・オースティン『分別と多感』を読み直し終える。面白くて、ついつい夜更かしをしてしまった。新聞に総理大臣の分刻みの日程が報じられているが、読んでいる本が面白くて、ついつい夜更かしをするなどという経験はできないだろうなぁ、ざまぁみろと思ったりした。 『更級日記』の作者の少女時代の思いが、老人になって理解できるというのも奇妙な話である。

7月18日
 ロアルド・ダール『単独飛行』(ハヤカワ文庫)を読み終える。『少年』に続く著者の自伝の第2弾。石油会社に入社したダールはタンガニーカ(現在のタンザニアの一部)に派遣されることになり、船の中で奇妙な植民地人種との遭遇を重ねた後、赴任地では(毒蛇やライオンが登場する)おかしくもスリリングな体験をする。第二次世界大戦がはじまると彼はRAF(英国空軍)に志願、長身の彼にはふさわしくないといわれながらも、戦闘機のパイロットとして東部戦線で任務に就く・・・。一緒に訓練を受けた、あるいは一緒に戦った仲間の多くが戦死した中で、彼が生き延びたのは運がよかったとしか言いようがない(のだが、そのおかげで、彼は個性豊かな作家としての活動を展開することになる。女優のパトリシア・ニールの夫になったりする→のちに離婚)。

 この本の最初の方に、紅海を航行中アビシニア戦線に従軍慰安婦を運ぶイタリアの船に出会ったという話が出ていて、イタリア映画『国境は燃えている』(La Soldatesse, 1965、ヴァレリオ・ズルリーニ監督)を思い出した。この映画は第二次世界大戦中のギリシア戦線の話で、休暇中だった中尉のトマス・ミリアンが各地に分遣されている部隊に慰安婦を運ぶ任務を与えられる。マリー・ラフォレ、アンナ・カリーナ、レア・マッサリといった女優さんたちが、慰安婦に扮していた。

7月19日
 『日経』朝刊にウィルタ族の木偶をモチーフにした人形を作り続けている大広朔洋さんによる「北方民族の祈りを彫る」という記事が掲載されていた。ウィルタはサハリン中部以北に住んでいた民族で、そのうち日本領であった南樺太に居住していた人々が、日本の敗戦後に北海道などに移住したが、それらの数についての正確な統計はないようである。同じような民族集団に二ヴフ(ギリヤーク)がある。ウィルタについて書いた『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』という本は、むかし持っていたが、退職した時に処分してしまった。『ギリヤークの昔話』という本は持っているので、そのうち、紹介するかもしれない。

7月20日
 『朝日』の朝刊で俳優の常田富士男さん(81歳)が18日に、脚本家の橋本忍さん(100歳)が19日に亡くなられたことが報じられていた。ご冥福をお祈りする。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ ⑩ 見習い鑑定士の決意と旅立ち』(双葉文庫)を読み終える。京都を舞台にしたコージー・ミステリのシリーズであるが、今回は「九州・超豪華寝台列車の旅」が主な舞台である。3月10日づけの当ブログで取り上げたロビン・スティーヴンス『オリエント急行はお嬢様の出番』に比べると列車旅行も、解決されるべき事件もスケールが小さいのはやむを得ないことかもしれない。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の“Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Tact is the ability to describe others as they see themselves.
        ―― Abraham Lincoln (16th U.S. president, 1809 - 65)
(如才のなさとは、人のことをその人が思っているとおりに言い表すことのできる能力だ。)
リンカーンは、政治家であるとともに、人間と社会についての鋭い観察家でもあった。たぶん、若いころの苦労の積み重ねによるものであろう。

 オースティンの『分別と多感』に引き続き、『マンスフィールド・パーク』を読み直し始める。

 国会では「カジノを含む統合型リゾート(IR)」法案が可決・成立。それに先立つ内閣不信任案の審議で自民党の金田勝年議員は「政治の安定を図り、国民とともに政治を前に進めることが大切だ」と述べて反対したが、これは立憲民主党の山内康一議員が賛成討論の中で「大雨の警戒を呼び掛ける中で首相、防衛相、官房長官がそろって宴会とは呆れる」と述べたことと併せて、むしろ賛成の議論にふさわしい内容ではなかったかと思う。
 私は賭博行為にもカジノにも反対ではないし、もし金と暇に恵まれれば(ほとんど可能性はない)、カジノに行きたいと思っているが、日本国内にIRを設置することには経済的な合理性を認めないので、この法案には反対である。1980年代に日本各地にテーマパークが作られたが、そのどのくらいの部分が現在存続しているかを考えればわかるはずである。さらに言えば、アメリカでは多くのテーマ・パークが作られ、その多くが失敗したという歴史的な経緯をだれも参考にしなかった、つまり失敗例から学ぼうとしない知的怠慢を腹立たしく思う。

7月21日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第24節:横浜FC対FC岐阜の対戦を観戦する。試合開始早々にDFの北爪選手が右サイドから岐阜陣内深くに攻め入り、ボールがイバ選手から野村選手にわたって横浜が先制。さらに前半終了間際にまたも北爪選手が右サイドから攻め入って、ゴール近くに上がっていた武田選手がゴールを決めて横浜が2点目を挙げた。後半にも、イバ選手がゴールを決めて3点差となり、横浜が快勝した。 

7月22日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は評論家の三浦雅士さんの「自己認識とは大なり小なり自分を騙すことだ」という言葉を紹介している。しかし、騙すのにはそれなりの裏付けが必要ではなかろうか。
 三浦さんといえば、神保町の北沢書店で、私の先客であったことがある。店員の応対は私に対するほうが丁重だったが、これは買った本の金額が多かったためであろう。

 先週、今週とベトナムの絵画を歴史的に紹介した『日経』の「近代ベトナムの夢と理想」を面白く読んだ(上・中・下のうち上は読み落としたのである)。特に今回紹介されたグエン・ファン・チャンの「オーアンクァン遊び」という絵は日本画を思わせるような画調で興味深かった。ベトナム絵画がフランスとともに、日本の絵画からも影響を受けたということもあるだろうが、日本とベトナムの文化的な距離の近さということもあるかもしれない。
 梅棹忠夫が『東南アジア紀行』の中でベトナム人は日本人と外見的によく似ている(確かにそう思う)が、目の輝きがないという観察を述べている。この話をある友人にしたところ、「(少なくとも今では)逆だろう」、自分の勤めていた大学でのベトナム人留学生のまじめな勉学ぶりを語っていたことを思い出す。

 明末の「清言」の書である『菜根譚』の第一条は次のようなものである:
道徳に棲守する者は、一時に寂莫たり。権勢に依阿する者は、万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。寧ろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。(岩波文庫版、25ページ、人生に処して、真理をすみかとして守り抜くものは、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度をとるべきではない。)
 最近の政治の動きを見ていると、この言葉を思い出す。と、同時に魯迅の「狂人日記」の中の、歴史の本を読んだら、わかりにくい文字で「仁義道徳」というようなことが書き連ねられていたが、もっとよく読んでみると、「食人」(中国語の原文では「吃人」だろう)という文字が一面に書かれていたという個所も思い出す。
 
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