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山内譲『海賊の日本史』(2)

7月21日(土)晴れ、暑さが続いている。

 この書物の中で、著者は日本史における海賊の姿とその果たした役割の変遷をたどっている。著者は海賊についてかなり限定的な定義を用い、各地の浦々に拠点を置いて、航行する船舶を襲う存在ととらえている。
 前回(7月7日)は、序章「海賊との遭遇」、第1章「藤原純友の実像」、第2章「松浦党と倭寇」を取り上げた。今回は第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」の前半部分についてみていくことにする。

 第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」は、貞和3年(南朝正平2年、丁亥、1347)6月に薩摩の東福寺城(現在の鹿児島市の市街地の北端)を数千人の熊野海賊が襲うという事件から書き起こされている。東福寺城を支配していたのは、薩摩守護でこの地域の北朝方の有力者であった島津貞久である。これをはるばる紀州から海賊がやってきて攻撃したというのである。当時、東福寺城の近くにある谷山城(鹿児島市)には南朝方の征西将軍であった懐良親王が拠点を築いていて、熊野海賊はその勢力と呼応して攻撃を仕掛けたのである。 
 建武3年(南朝延元元年、丙子、1336)に後醍醐天皇が比叡山を降りていったん足利方に降伏した後、また脱出して吉野に朝廷を構えた次第は『太平記』第18巻に記されているが、それに先立って第17巻では天皇が皇子たちに主要な廷臣をつけて各地に下らせ、勢力の温存をはかったことについても触れられている。懐良親王はこのようにして九州を目指すことになったが、おそらくは熊野の海上勢力に守られて、1339年ごろに伊予の忽那島(愛媛県松山市中島)に着いた。この島に3年間滞在した後、九州に向かい、興国3年(北朝康永元年、壬午、1342)に薩摩に到着した。この渡海にあたっては、忽那義範の率いる水軍が大きな役割を果たした。このように、懐良親王一行は瀬戸内の海上勢力に守られて、九州上陸を果たすことができた。

 親王の九州上陸後も、熊野海賊と忽那一族は連携しながら、親王と九州の南朝方を助けた。懐良親王は谷山周辺で5年ほどを過ごし、やがて九州制圧を目指して北上を始める。ここで注目されるのは、北上に先立って、既に述べた貞和3年(南朝正平2年)ごろから南朝方の海上勢力の動きが活発になっていたことである。今回の最初に取り上げた東福寺城の攻防戦はこのような動きの中で行われ、島津氏側の記録によれば、北朝方は敵の猛攻を辛くもしのいだのである。

 九州の北朝方の武士たちからこのように恐れられた熊野海賊とはどんな勢力なのだろうか。まず、熊野とは紀伊半島の南部、紀伊国牟婁郡が大体の範囲で、現在では牟婁郡は東西南北に四分され、東西牟婁郡は和歌山県に、南北牟婁郡は三重県に属している。この地域は山がちである一方で海にも面し、地理的な条件から海に関わる人々の活動が盛んであった。また熊野というと熊野三山(熊野本宮神社、熊野速玉神社=新宮、熊野那智神社)を指す場合もあり、熊野海賊という場合には、熊野三山の影響下にある海上勢力というニュアンスが含まれることもある。

 熊野で活躍した海上勢力の中でもっともよく知られているのは、『平家物語』に登場する熊野別当湛増である(ここでは触れられていないが、弁慶の父親であるという説もある)。平安末期、熊野三山を統括する熊野別当の地位は、新宮に拠点を置く新宮家と田辺に進出して別家を立てた田辺家によって争われていたが、田辺から出た湛増は、別当の地位をめぐる争いを有利にしようと、源平争乱の中に身を投じたのである。

 以仁王の令旨に応じて反平家の兵をあげた湛増であったが、弟の湛覚や新宮家との争いに敗れて一時は逼塞するが、海辺の武装勢力の味方を得て、熊野から平氏勢力の手薄な伊勢・志摩方面に進出して、平氏を悩ませた。〔以仁王の令旨を諸国の反平氏勢力に伝えて回ったのは、頼朝の叔父にあたる新宮十郎行家であったから、新宮家のほうが反応してもよかったと思うのだが、田辺家の湛増のほうが応じたというのは面白い展開である。〕 
 その後、湛増は源義経に協力、壇ノ浦の戦いで活躍するが、その前に田辺の新熊野神社(闘鶏神社)の神前で白い鶏(源氏)と赤い鶏(平氏)を戦わせて、源平の戦いの帰趨を占ったという話が有名である。

 「このような別当湛増の活躍の流れを受けて、南北朝時代に再び歴史の表面に現れてきたのが「熊野海賊」である。彼らの活動は、湛増のそれのように軍記にとどめられることはなかったが、その活動期間は湛増よりも長く、また活動範囲も広い」(115ページ)と著者は論じている。その更に具体的な活動については、また次回に触れることにしよう。
 今回の個所を読んでいて、興味深く思ったのは、東福寺城を必死になって守ったという記録を残した北朝方の武士である渋谷重興が桓武平氏の流れをくむ秩父一族の渋谷氏の末流らしいということである。渋谷重国は平治の乱の際に源義朝に従って戦った武士で、同じく義朝に従って戦った佐々木秀義が所領を失い、奥州に落ち延びようとしているのを引き留めただけでなく、秀義の息子たちが頼朝の挙兵の際に駆けつけるのを黙認し、石橋山の戦いで敗れて戻ってきたのを匿ったという武士である。その子孫は鎌倉幕府の御家人として活動し、やがてその一部が薩摩に定住することになった。重興はたぶん、その一人であろう。あらためて、両方に歴史があるのだということを実感した次第である。
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