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森本公誠『東大寺のなりたち』(4)

7月20日(金)晴れ、暑さが続いている。

 東大寺の僧侶として70年近くを過ごす一方で、イスラム史家でもある著者による東大寺成立史の研究。これまでに紹介した第1章「東大寺前史を考える」では、東大寺の前身が聖武天皇の皇太子であった基親王の幼くしての死を悼んで建立された山房であったが、これはささやかなお堂というようなものではなく、一定規模の堂宇であり、その後金鍾山房と呼ばれる時代を経て、大和国分寺としての性格、また、総国分寺としての役割も持つようになった経緯が述べられている。
 第2章では聖武天皇の政治姿勢がもともと儒教的な徳治思想に基づくものであったのが、その治世のあいだに続いた災厄の経験を通じて、仏教、特に華厳経の教えに傾いていったこと、この経典に基づいて諸国に国分寺を建立し、また都の総国分寺に大仏を造立することを構想されるようになる。

 第3章「宗教共同体として」は、天平19年(747)に大仏の鋳造が開始された前後の政治の動きから書きはじめられている。作業が軌道に乗り始めた天平20年(748)に元正太上天皇が亡くなられた(聖武天皇にとっては伯母に当たり、聖武天皇の父である文武天皇の死後、聖武天皇の成人までの間の中継ぎとして天皇位につかれていた。律令制度の整備に貢献されるなど、その業績は無視しがたいものである)。聖武天皇はその冥福を願って、諸寺に誦経を命じるなどの措置を講じられた。さらに天平21年(749)に大仏造立においても大きな役割を果たしていた大僧正行基が遷化した。
 行基は長く民間布教に従事し、各地で土木工事を起こして人々の生活の向上に努めたが、その行為は僧尼令違反として官憲の弾圧を受けた。しかし、大仏造立事業に彼の力が欠かせないことで、彼の行動は公認され、大僧正の地位に起用されていたのであった。東大寺には「四聖の御絵」と言って、この寺の建立に貢献した4人の人物の姿を描いた絵が伝えられているが、その中に聖武天皇、良弁僧正、大仏開眼の際の開眼師であった婆羅門僧正(菩提僊那)とともに行基が描かれている。東大寺の歴史の中でその功績が高く評価されてきたことがわかる。 

 2人の死を悲しまれていた聖武天皇にそれを吹き払うような吉報がもたらされた。陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)から陸奥の国で黄金が発見されたと知らせてきたのである。大仏の鋳造は順調に進んでいたが、廬舎那仏が光り輝く仏である以上、その仏像には鍍金するための黄金が必要である。しかし、それまで日本国内では黄金は産出されていなかった。天皇と国全体)が蒙ってきたこれまでの悲惨を考えると、天皇の喜びがいかばかり大きなものであったかが想像できよう。

 この年4月1日、天皇は文武百官を引き連れて東大寺に行幸され、まだ完成していなかった大仏像をご覧になる。この時の天皇の詔は自らを「三宝の奴」と位置づける画期的なものであった。(森本さんにとっては常識だが、このブログの読者にとっては必ずしも常識ではないと思うので、注記しておくが、「三宝」とは仏・法・僧である。ただし、仏のみを指して言う場合もあると『広辞苑』には記されている。) また詔とともに宣命を出されたが、その中で寺院に墾田地を許可したという点が注目される。僧侶や仏事が土地の所有者になるということは、仏教の本来の趣旨から外れたものだという批判もあるかもしれないが、教団を維持していくうえで、これは重要なことである。この後、寺院や神社が所有する荘園について詳しい記録を残し、それが日本史研究の重要な史料となってきたという点でもこの施策は重要である。

 4月のうちに、年号は天平感宝と改元された。さらに閏5月には大安・薬師・元興・興福・東大の五大寺を含む十二の有力寺院に施入を行い、それに願文を添えられた。この時の勅書のうち、おそらく大安寺に充てて交付されたものが現在まで残っており、当時の行政制度が文書の様式に至るまで中国の唐のそれに倣ったものであったこと、すべての経典の中で「華厳経」を最上位に置くという仏教観がみられることも重要であるが、さらに天皇が「太上天皇沙弥勝満」と自称されている点が注目されるという。実は聖武天皇の出家の時期や戎師をめぐっては議論があるからである。

 黄金の産出を機会にますます仏道への帰依を深められた天皇は、仏教研究を深めようと決心され、そのために出家の道を選ばれたと考えられる。おそらくは『華厳経』の最終章である「入法界品(にゅうほっかいぼン」に登場するある王が、如来の下で深遠な説法を聴いて菩提心を起こし、王位を太子に譲り、さらに在家のままでは法の真理を会得することは困難だとして出家するという逸話があるが、天皇はこれを規範とされたのであろう。もっとも出家といっても、天皇の場合は沙弥であって、大人の妻帯在家者の沙弥は正式の僧ではない。「現実問題としては太上天皇としての権力を保持しながら、表向きの儀式等の「まつりごと」を離れるだけで、政治から完全に身を引くわけではなかった。」(82ページ)
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