FC2ブログ

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(5)

7月19日(木)晴れ、暑さが続いている。

 「月長石」(the Moonstone)はインドのベナレスにあったヒンズー教寺院の月の神の額を飾っていた宝石であるが、数奇な運命を経て、イングランドに渡ってきた。この宝石に触れるものとその一族には恐ろしい災いが及ぶという言い伝えがあり、また3人のブラーフマンが次々にこの宝石を見守る役割を与えられているといわれてきた。ジョン・ハーンカスルから、姪であるレイチェル・ヴェリンダーに遺贈されたこの宝石は次々に奇怪な事件を呼び起こすことになったのである。

 1848年6月に起きた黄色いダイヤモンド<月長石>の紛失とその後に起きた事件をめぐる第1の証言はイングランドのヨークシャーに住むジュリア・ヴェリンダ―卿夫人の執事であったガブリエル・ベタレッジの手記である。
 1848年5月24日に、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から翌日、彼女の甥であるフランクリン・ブレークが彼女の娘であるレイチェルの誕生日を祝うために邸に到着すると知らされる。フランクリンはヴェリンダー卿夫人の長姉の子どもで、レイチェルには従兄に当たる。公爵の地位をめぐる訴訟に敗れた父親が、イングランドの社会を信用しなくなったために、フランクリンはドイツとフランスで教育を受け、ヨーロッパ大陸で気ままでいささか自堕落な生活を送っていたらしい。
 5月25日、フランクリンの到着は夕方になるだろうと予想したヴェリンダー卿夫人とレイチェルが外出した後に、邸をインド人の手品師の3人組が1人の少年をつれてあらわれる。彼らは邸で自分たちの芸を披露したいと申し出るが、ベタレッジは奥さまもお嬢さまもお留守だからと言って断る。彼らは街へと戻ってゆく。
 ところが、その後、ベタレッジの娘で、この屋敷でレイチェル付きの女中をしているペネロープが急いでやってきて、あのインド人たちはよからぬことを企んでいるようだから、警察に通報して逮捕してほしいという。彼らの姿を見て怪しいと思った彼女は、こっそり彼らの跡を付けて様子を窺ったのである。

 インド人たちは少年に手を差し出させ、その手のひらに黒いインクのような液をたらし、少年が石像のように体をこわばらせて立ったままでいるのを見て、少年に問いかけた。
「「外国から帰ったイギリス人の紳士が見えるか?」
「見えます」と少年は答えた。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道か、それともほかの道か」とインド人が言った。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道であって、他の道ではありません」と少年は言った。
 インド人はちょっと間をおいてから第二の質問をした。「その紳士は、あれを持っているか」(中村訳はでは「あれ」となっているが、原文はHas the English gentleman got It about him?となって、itではなくItと大文字で書かれていて、何か大事なものが話題になっているらしいことがわかる。)
 少年は、同じようにちょっと間をおいてから答えた。「はい」
 インド人は、第三の質問をした。「その紳士は、予定どおり、夕方ここへつくのか」
「それはわかりません」と、少年は言った。」(34‐35ページ)
 どうも彼らはフランクリンがヴェリンダー邸にやってくることをめぐって話をしていたらしい。ベタレッジはインド人たちがフランクリンがやってくるという予言を演じてみて、いくらかの金を屋敷の人々から引き出そうと考え、その練習をしていたものと推理する。そしてペネロープは騒ぎすぎで、父親の昼寝を邪魔しなければよかったのだと結論する。
 ところが、ペネロープは違う考えをしていた。彼女はインド人の言葉の中の「あれ」(It)に関心を示した。ベタレッジはフランクリンが到着してから、彼に直接聞いてみようといって、その場を収める。彼の頭の中には、あわて、心配している自分の娘を落ち着かせることしかなかったのであるが、その後、実際にフランクリンにあってこの話をすると、「あれ」というのは月長石のことだという答えが返ってきて、フランクリンもまたペネロープと同じように、問題を決して軽くは考えていないことがわかったと、ベタレッジは書いている(この時点ではまだフランクリンはヴェリンダー屋敷に到着していないのである)。

 ペネロープが行ってしまったので、ベタレッジはまた眠ろうとしたが、すでに夕食の準備が整い始めていて、食器類がガチャガチャいう音が聞こえはじめた。ここで夕食というのは、召使たちがとるもので、主人たちの前に夕食を摂っておいて、主人たちの食事の給仕をするわけである。ベタレッジは食事は自分の居間で摂ることにしているので、召使たちの食事には関係がない。ところが、一人の女性がベタレッジのもとにかけてきた。今度は彼の娘のペネロープではなくて、kitchen-maidのナンシーであった。(中村能三訳ではただ「女中」となっているが、原文は「台所係の女中」である。ヴェリンダー家は大勢の召使を抱えているだけでなく、その中での役割分担がかなりはっきりと決まっていることがわかる。ナンシーは、ちょうど彼女の通り道にいたベタレッジに向かって、通してくれと頼んで行き過ぎようとしたが、彼女がふくれっ面sulky faceをしていることに気づいたベタレッジは、召使の長として見過ごすことができないと、彼女に事情の説明をもとめなければならないと思った。〔この個所を見ても、ヴェリンダー卿夫人が目の行き届いた女主人で、ベタレッジがその信頼にこたえうる有能な執事であることがわかる。〕

 夕食の最中だというのにどこへ行くのか、何かあったのかというベタレッジの問いに答えずに、ナンシーが通り抜けようとするので、ベタレッジは立ち上がって彼女の耳を捕まえた。「女の子を心ひそかにひいきにしてやっていることを表わすのに、そういう態度をとるのが、私の習慣であった。ナンシーは、むっちりと肉づきのいい、かわいらしい娘なのである。」(中村訳、38ページ) ここは別の訳し方があるのかもしれないが、よくわからない。大筋において、中村訳は間違っていないと思われる。今日であれば、ベタレッジのしたことは問題があるかもしれないが、御当人同士は別に問題にしていない様子である。ナンシーは、下働きの女中second housemaidであるロザンナ・スピアマンが夕食の席に遅れてやってきていないので迎えに行くのだ、そういう厄介な仕事はみんな自分に押し付けられているという。
 不機嫌なナンシーが必要以上に荒々しい言葉で、ロザンナをつれてこようとするのを懸念して、ベタレッジは自分がロザンナをつれてきた方がいいだろうと考え、彼女に、ちゃんと時間を守るようにそれとなく言って聞かせるからと、ナンシーに言う。そして彼女に、ロザンナはどこにいるのだと尋ねる。ナンシーは、ロザンナが持病の発作を起こして、休んでいいという許可を得たので、浜辺で新しい空気を吸っていると答える。それでベタレッジは自分が呼んでくるという。それを聞いて食欲旺盛なナンシーは(夕食の席にすぐに戻れるので)嬉しそうな顔をし、そういう顔をするとなかなかかわいく見えるので、ベタレッジは彼女のあごの下をちょっとくすぐってやった。これは不道徳な気持からというよりも、単なる癖であるとベタレッジは弁解している。〔本当のところはどうだかわからない。〕

 この後、ベタレッジは海岸にロザンナを探しに出かける。ロザンナについては、次回にその詳しい身の上が語られることになるが、彼女はこの後の物語で重要な役割を演じることになる。彼女はsecond housemaidであるが、これはすでに述べたように「下働きの女中」という意味であって、「二番女中」などと訳すと間違いになる。中村さんは正しく訳しているが、シャーロック・ホームズの「マスグレイヴ家の儀式書の冒険」(The Adventure of the Musgraves Ritual)に出てくるマスグレイヴ家の使用人の一人レイチェル・ハウェルズについて「二番女中」と訳した翻訳者がいる。3人のインド人が少年に対して施した術は、説明が難しく、あるいはコリンズは一種の妖術として描いていたのかもしれない。このあたりが、この作品の近代的な探偵小説とは認めがたい特徴ではある。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR