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『太平記』(219)

7月17日(火)晴れ、暑い。

 今回から『太平記』第20巻に入る。『太平記』は第1巻~第40巻から構成されているが、第22巻が欠けているので、全部で39巻ということになり、第20巻は折り返し点であるといってもいい。

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月、九州から反攻に転じた足利尊氏・直義軍が兵庫で宮方の新田義貞の軍を破り、義貞を応援にやってきていた楠正成が戦死する。足利方が京都を奪回し、後醍醐帝は比叡山に遷幸され、京都への復帰を期して何度か攻撃を試みられるが、補給路を断たれて戦闘を継続できなくなり、京都に戻り、尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉される。しかし京都を脱出して、吉野の金峯山寺に落ち着かれた。一方、比叡山から恒良親王を奉じて北国に向かった新田義貞は、本拠としていた(現在の福井県敦賀市にあった)金ヶ崎城を攻略されたが、宮方の瓜生兄弟の拠る南越前の杣山城を足掛かりとして次第に勢力を挽回していた。建武4年(南朝延元2年、1337)8月に、奥州の北畠顕家が大軍を率いて都を目指し、利根川の合戦で足利方に勝利する。11月(史実は翌年8月)足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任じられる。12月、北畠顕家の奥州勢が足利方の守っていた鎌倉を陥落させる。建武5年(この年、暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の奥州軍が鎌倉を出発して西上、鎌倉から退却した足利方の武将たちがそれを追って西上、美濃の青野ヶ原で両軍が戦うが、数において勝る奥州軍が勝利を収めた。京都では、高師泰、佐々木(京極お)導誉らの軍勢を派遣、奥州軍はなぜか、対決を避けて伊勢方面へと迂回し、足利方が京都を守り抜くという結果となった。〔このあたり、当時の記録に即して、『太平記』の記述の信憑性の詳しい検討を必要とする。〕

 新田義貞は、暦応元年(南朝延元3年、1338)の正月のはじめ(実際は2月の中旬)に越前府(こう、現在の福井県越前市国府)の新善光寺城に拠る斯波高経との戦いに勝利し、その後、(越前)国内の城郭70余か所を攻め落として、その勢力をとり戻していた。比叡山からは、3000の衆徒が旧来のよしみをもってひそかに連絡してきていたので、まず比叡山に戻って衆徒たちと力を合わせ、都の南方の宮方の軍勢と呼応して京都を攻めれば、極めて容易なことと思われたのだが、義貞は、斯波高経がなお越前の黒丸城(福井市黒丸町にあった、小黒丸城ともいうようである)に踏みとどまって抗戦を続けていたので、これを打ち破ってから上洛するのでないと悔いを残すと、つまらない小事にとらわれて、大事を後回しにしたのは残念なことであった。
 『太平記』の中では義貞は、小さなことに意地を張って大局を見失うことの多い、武将として描かれているが、それはあくまで『太平記』の作者の描く義貞像であって、本物の義貞がどのような人物であったかについては別の意見があってもよいのではないかと思われる。それに、義貞にとって足利一族の中の重鎮である斯波高経は侮ることのできない強敵であったことも否定できない。

 5月2日に義貞は、自ら6千余騎の軍勢を率いて、国府(つまり越前市国府)へと進出、斯波高経が防御のために足羽川流域(越前国足羽郡・吉田郡)に築いていたいわゆる足羽七城のうちの波羅蜜(福井市原目町)、安居(あご、福井市金屋町)、河合(福井市川合鷲塚町の辺り)、春近(はるちか、堺市春江町)、江守(福井市南江守町)の5か所に5千余騎の兵を差し向け、足羽七城の攻略を目指す。
 まず一番に、義貞の妻である勾当内侍の兄弟である一条行実が500余騎で江守から押し寄せ、黒龍(くずれの)明神の前で戦闘を交える。行実の軍、劣勢で押し戻され、元の陣へ引き返す。
 一番の戦法にお公家さんを使うというのは、戦術的にまずいのではないか。案の定、戦闘を有利に展開できずに戻ってきている。黒龍明神というのは福井市西南部の足羽山東麓の毛谷黒龍(けやくろたつ)神社のことだそうである。実は私は、40年ほど昔、足羽山に登ったことがあるが、この神社については気づかなかった。その頃は、『太平記』には全く興味がなかったのである。

 二番目に、義貞の重臣である船田経政が、500余騎を率いて安居の渡りから押し寄せ、軍勢の半分ほどが川を渡っているときに、斯波高経の副将である細川出羽守が150騎で対岸にかけ向かい、高くそびえたった岸上に陣取って、矢を一斉に射かけたので、ただでさえ水量の多い川の水に難儀していたものだから、馬も人も足を取られ、溺れ、大勢の戦死者を出してしまい、これまた戦果を挙げることなく、引き返すことになる。
 安居の渡りというのは九頭竜川の大支流である足羽川と日野川が合流するあたりで、それほど急流ではないが、水量は多く、川も深いはずである。船田は一番手の一条行実と違って歴戦の武士ではあるが、かなり軽率な攻め方をしたといわざるを得ない。

 三番に新田一族の細屋秀国が、1000余騎を率いて河合の庄から押し寄せ、その北の端にある勝虎城(しょうとらがじょう、福井市舟橋町。九頭竜川西岸、北国街道の渡河地点にあった)を包囲し、一気に攻め落とそうと塀によじ登り、堀を渡ろうと攻撃をしているところへ、斯波の被官で越中の豪族である鹿草(ししくさ)兵庫助が300余騎で包囲軍の背後を突いて襲い掛かった。数においては劣勢であったが、必死の戦いぶりである。細屋の軍勢は、城を守っていた軍勢と、背後から襲い掛かってきた軍勢とに追い立てられ、これまた元の陣に引き返さざるを得なかった。

 このように足羽七城をめぐる攻防戦は、3回にわたり展開されたが、それぞれ新田勢は戦果を挙げることなく敗退した。この3人の大将は「皆、天下の人傑、武略の名将たりしかども」(第3分冊、349ページ)と『太平記』の作者は書いているが、これは贔屓目に見た記述であろう。それぞれ相手を見くびって、勝ちを急いだのが敗因だという。〔これは部分的にせよ、当たっている。〕 それで、後漢の光武帝が戦いに臨む際に、大敵を見ては侮り、小敵を見ては警戒したというのは、それなりに筋の通った意見であると思われたことである。〔この時代の知識人ならば、誰でも知っていたはずのことであるが、建武というのは後漢の光武帝時代の年号である。〕

 新田義貞は越前と北陸地方で力を増してきたが、まだまだ万全の体制を築いたとは言えない。義貞は武勇に秀でているが、軍略に優れているとは言えない(執事であり、有能な助言者であった船田義昌が戦死したのが痛い)。宮方全体に言えることであるが、どうも人材が不足している。さて、今後の展開はどうなるか? 足羽七城についてはインターネットで検索すると、その遺跡を探訪したという記事がいくつも見つかるので興味ある方は自分で調べてみてください。
 昨日(7月16日付の『朝日』朝刊に「『想定外』を考える 元気ない太陽 夏が消える」という記事が出ていた。この記事では触れられていなかったが、14世紀の初めのころというのは、地球の気温が異常に下がった時期だったのではないかという説がある(このために海面が後退し、新田義貞の稲村ケ崎での海岸線からの突破もこのことと関連があるのではないかといわれる)。比叡山から越前に向かう新田義貞の軍が途中で寒さに出会い、かなりの部分が凍死したというのもこのことと関連しているようである。
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