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森本公誠『東大寺のなりたち』(3)

7月13日(金)午前中は雲が多かったが、午後になって晴れ間が広がり、気温も高くなる

 著者は主にイブン=ハルドゥーンの著作の翻訳や研究で知られるイスラム史家であるが、1949年に入寺し、東大寺別当・華厳宗管長をつとめたこともある東大寺の僧侶でもある。これは、その著者が70年近く寺の中で修行を続け、その中での見聞を踏まえて書いた、東大寺の成立史である。書物は以下の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 東大寺の前身は、聖武天皇が幼くして亡くなったその子・基親王の菩提を追修するために建立した山房であり、この参謀は現在の法華堂(三月堂)の原型と考えられる。さらに他の堂宇を加え、やがて金鍾山寺という寺院となり、さらに大養徳(大和)国金光明寺として大和の国の国分寺であるだけでなく、全国の国分寺の総元締めとしての地位を与えられるようになった。
 聖武天皇はもともと中国の政治にならって、経史に基づく徳治主義的な統治を目指したが、相次ぐ天変地異と人々の苦しみを見て、その限界を感じ、仏教、特に華厳経の教えに近づくようになった。

 天平6年(734)に聖武天皇は干ばつによる不作の連続で飢饉が起こり、民が罪を犯してしまうような事態に至った。その全責任は自分1人にあるという詔を出し、罪人たちに大赦を与えられた。
 この時代、国家の繁栄の要諦を冨民に置くという国家観が支配的であり、それを制度的に支えていたのが班田収授法である。土地は国家のものであり、国家は農民に土地を分け与えて(班田)、耕作ができるようにする。ところが班田収授法が施行されて数十年もたつと、人口増のためであろうか、公民に班給すべき口分田が不足してきた。そこで土地の開墾を促すための施策として、養老7年(723)に「三世一身法」が出され、開墾事業がこれによって進んで問題はある程度解決されたかに見えたが、根本的な解決には至らなかった。このような土地問題に加え、自然災害や疫病の流行が人々を苦しめ、重大な政治的課題となったのである。
 天平7年(735)には天然痘が流行し、全国で死者が続出した。穀物も不作で、天皇は困窮者の救済を目指す詔を発して、社会的な弱者に手をさしのべられた。しかし、なお、不運は続き、翌天平8年(736)も凶作となり、諸国各地で逃亡者や浮浪人があふれた。律令では離村者は本籍地に連れ戻すのが原則であったが、中には連れ戻そうにも、戸籍から削除されている浮浪人もいた。聖武天皇は浮浪人について、この8年の2月に、公民籍に編附することを停止し、別途、現住地での名簿に登録してよいと改めた。公民とは別個に、浮浪人を一つの身分として公認したのである。ただそこで問題になるのは、彼らにどんな正業を用意するかであった。本籍地に編附されていなければ口分田を分け与えられないからである。

 しかし、それでも災厄は終わりを告げなかった。天平9年(737)に再び天然痘が流行し、4月に参議の藤原房前が没した(房前は、不比等の次男で、北家の祖である)。天皇は5月に詔を出されて、またも米穀支給と減税措置などの措置を講じられた。それでも災厄は続き、7月には参議藤原麻呂(不比等の四男で京家の祖である)、次いで右大臣藤原武智麻呂(不比等の長男で、南家の祖である)が亡くなった。8月には中宮大夫兼右兵衛率(かみ)で橘諸兄の弟である橘佐為、続いて参議藤原宇合(うまかい、不比等の三男で、式家の祖。『懐風藻』に最多の漢詩を残し、『常陸国風土記』の編纂者であったのではないかと論じる人もいるなかなかの文化人である)が亡くなった。高校の日本史で習ったことを記憶されている方もいらっしゃると思うが、藤原氏の4兄弟がすべて没したのである。聖武天皇は8月13日の詔でこの不幸は「まことに朕の不徳の致すところである。百姓の正業が成り立つように、天下の今年の田租と公私の出挙稲の滞納額を免除する」(61ページ)と指示された。現代に直して言うと、税金を取らないだけでなく、滞納分も追徴しないということである。

 餓死者や病死者が出れば田は荒れ、そうなれば田租も減少するし、農民に貸し付けた稲も戻ってこない。中央政府は天平6年に通達を出し、国家が所有している官稲を国司に無利息で貸し出し、国司はその稲を農民に出挙、すなわち利息付きで貸し付けてもよいとした。そのような官稲は、各国の郡ごとに設けられている正倉に備蓄されていた。農民からとる利息が国司の収入となることを認めたうえでの措置であった。このような政策は天災による痛手をいやすために、農民を督励するよう地方行政官である国司に奮起を促すことを目的としていたが、それが実際に効果を上げ、農民たちに利益を与えたかは疑問である。
 とにかく、聖武天皇は窮民救済の具体策を次々に推し進められる一方で、神仏に頼るために様々な宗教的な行事を行った。この年、10月26日には、大極殿において、『金光明最勝王経』の講説を元日朝賀の儀に準じて盛大に催し、それ以後、天然痘の流行は下火になったのである。

 この年の年末に天皇は大倭国を大養徳国と改称した。基金や疫病の流行とともに、聖武天皇の気がかりであったのは人心であったと著者は推測する。この改称には、「災異に打ちひしがれ、あるいは生きる気力を失った天下の民をいかにして救えばよいかという天皇の苦悩が滲み出ている」(64ページ)という。天皇は物心両面を視野に入れた国家的事業を模索されてきたが、その結果として2つのプロジェクトを構想された。一つは、全国に釈迦を本尊とする国分寺を建立して、民に仏教思想を啓もうすることであり、もう一つは、新たな都を作り、その都の国分寺に廬舎那大仏を造立することであった。
 「天皇は胸中の構想を具現化するために遷都を決断した。莫大な費用を覚悟しなければならないが、人々は動かす12月ことができる。国力の疲弊した直後での遷都が無理な計画であり、失政だったことは、天皇がのちに自覚するところである。」(64‐65ページ)
 しかし、疫病が流行した後で、都を移そうとするのは、比較的理解しやすい発想である。むしろ巨大金銅仏を造立することのほうが問題ではないかと思うのだが、著者は東大寺の内部の人であるから、そういう風に考えないということであろうか。

 恭仁宮に遷都した天平13年(741)2月14日に、聖武天皇は国分寺・国分尼寺建立の詔を出された。その趣旨は、①天平7~9年の干ばつ・飢饉・疫病による極度に疲弊した天下万民の精神的支柱になることを目指して、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する。②立地は人々が集まりやすい勝地を択ぶ。③国分寺は寺号を「金光明四天王護国之寺」とし、20人の僧侶を置く。国分尼寺は寺号を「法華滅罪之寺」とし、10人の尼僧を置く。④毎月の六斎日は海も山も禁猟とする。
 国分寺の建立をめぐっては最近、須田勉さんの研究が出ているので興味のある方は、そちらをご覧ください(この書物の巻末の参考文献には挙げられていないので、注意を要する)。森本さんが重視しているのは、国分寺・国分尼寺が地域住民が参集しやすい場所を選んで建てられていること、国分寺の僧侶の定員が決まっているので、それらの僧侶の教育が必要となるはずであることの2店である。六斎日というのは1か月の中の8・14・15・23・29・30の6か日のことでこの日は、潔斎して心身を清浄に保つことが求められる。「国分寺建立は単に国家鎮護のためばかりでなく、一般の人々に対して、仏教思想を啓蒙する役割があった。つまり天皇は国分寺を人間教育の場にしようとしたのであった。」(68ページ) 人々が参集しやすい場所を選んで建てられたことの理由の一つがこの点に求められる。

 国分寺・国分尼寺の創設とともに聖武天皇が構想したもう一つのプロジェクトは、新都を建設して、そこに廬舎那大仏を造立するというものである。しかし、それ以前に処理しなければならない問題があった。それは口分田と墾田が混在する中で、墾田が荒廃しているという事実で、改めて国家が土地問題に取り組む必要があることを認識させるものであった。そこで、天平15年(743)に聖武天皇は墾田永年私財法を発布した。これにより公地公民という律令の定めた原則が崩され、墾田の私有権が認められたのである。この結果、公民籍を持たない浮浪人が墾田の所有者となる道が開けたことを森本さんは強調している。

 その後、聖武天皇は近江の紫香楽宮に行幸され、天平15年10月15日に廬舎那大仏造立の詔を出された。仏法の威霊の力をもって国家を平穏に保とうというのである。国分寺の本尊が釈迦仏であるのに対し、総国分寺の本尊は廬舎那仏であるのは、聖武天皇の仏教観に基づくものだと説明されていて、それはその通りなのだが、なぜそうなのかは、もう一つはっきりと説明されていない。聖武天皇が華厳経における菩薩に自らをなぞらえていて、その菩薩を導く廬舎那仏にすがろうとしているのだということのようであるが、今一つすっきりしないところがある。
 ところが、天平(745)4月27日に、大規模地震が発生し、このため、聖武天皇は周囲の勧めに従って都を平城京に戻した。しかし、それでも大仏の造立はあきらめず、平城京の東山麓にある大倭国金光明寺→東大寺において造立事始めの儀を行ったのである。
 森本さんは東大寺の大仏造立には浮浪人対策の大規模事業という意義があるとしているが、国分寺・国分尼寺の建立についての同様の意義があるはずである。それにしても、多くの国分寺が場所や建物が変わっても、現在まで続いているのに、国分尼寺のほうはほとんど廃絶しているということは、考えさせる問題ではないかと思う。
 華厳経というのは、日本よりも、(特に新羅時代の)朝鮮で重んじられた経典で、それが大仏造立の理論的な根拠になっているというのは興味深い問題である。(日本の仏教信仰の中で、一般にもっとも重んじられてきた経典は法華経である。) この問題、大仏と新羅の関係については、この本のもっと後のほうで考察されているので、その時にまた触れることにしよう。

 
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