FC2ブログ

『太平記』(218)

7月10日(火)晴れ、暑い

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、軍勢を集めて白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男)の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(高時の次男)は伊豆で、新田徳寿丸(義興、義貞の次男)は上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。

 京都の足利幕府は、奥州勢が上洛してくるという情報を得ていたが、美濃には土岐頼遠がいるので、大軍が西上してきても、一支えはできるだろうと当てにしていたところが、頼遠が、青野原の合戦に敗北して、行方不明になった、あるいは戦死したといううわさが伝わってきたので、京都方の慌てぶりは一通りではない。

 ということになると、宇治、瀬田の橋を落して防御を固めて待ち受けよう、そうでなければまず西国の方に引き退いて、四国、九州の軍勢を味方に加えて、そこから敵に対して反攻を仕掛けようなど、意見がいろいろ出て、軍議の結果が一つの案にまとまらなかったのであるが、この頃、侍所の頭人であった高越後守師泰(尊氏の執事師直の弟)が、しばらく思案してから、次のように述べた。
 「昔から今に至るまで、都に敵が攻め寄せてきたときに、宇治、瀬田の橋を落して戦うという戦術をとって戦ったことは数知れずある。とはいうものの、この川(瀬田川→宇治川)で敵を支えて、都を守り抜いたという事例をいまだかつて聞いたことがない。これは、攻め寄せるほうの軍勢は後ろを味方にして勢いに乗り、防ぐ方は、かろうじて洛中を維持して気力をなくしているからだ。敗戦続きの不吉な例を踏襲して大敵を都の近くで待ち受けるよりも、戦に勝つその機を窺って、急いで近江、美濃のあたりに駆けつけ、戦いを畿内の外で決めるほうがよい」といかにも勇気に満ちた様子で、理にかなった戦術を説いたので、尊氏も直義も、その通りだと納得して満足したのであった。

 そう決まったら時を移さず向かえということで、大将軍には高越後守師泰、高一族の播磨守師冬(師行の子、師直の猶子)、足利一族の細川刑部大輔頼春、佐々木(六角)大夫判官氏頼(時信の子)、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉、その子息の近江守秀綱、このほか諸国の大名53人、都合1万余騎が2月4日に都を出発して、6月の早朝に近江と美濃との境となっている黒地川(黒血川)に到着した。奥州勢も垂井、赤坂に到着したという情報が得られたので、ここで待ち受けようと、前方に関の藤川(藤古川)、後方に黒地川という2つの川のあいだに陣を取った。
 兵法上の常識としては、戦闘に際して山を背後に、川を前方にして陣を取るのが常道であるが、そうせずに、大河(というほどの川ではないが)を背後に陣を取ったのは、それなりの戦術であったのである。
 ということで、『太平記』の作者は足利方の陣構えは、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽とが天下を争ったときに、高祖側の大将韓信が採った嚢砂背水の陣の戦法に倣ったものだという。
 t
 そうこうするうちに、北畠軍10万余騎は、垂井、赤坂、青野原にあふれて、東西六里、南北三里に陣を張る。夜になって篝火を託様子を見ると、天の全ての星が落ちて、地上できらめているように見えた。この時、越前では新田義貞、脇屋義助兄弟が、北陸道の武士たちをうち従えて、天を動かし、地を治めるような盛んな勢いを見せていた。それで、奥州勢が近江と美濃の境の黒地に陣取る足利軍を追い払うのが難しいのなら、北近江を経由して越前に向かい、義貞と合流して、さらに比叡山に向かい、京都を北から見据えて、南方の吉野の宮方の軍勢と連絡を取り、東西から〔南北からというのが正しいと思うのだが〕京都を攻めれば、足利方は一日も持ちこたえられないと思われたのだが、顕家は、自分の功績が合流によって義貞に奪われるのではないかと嫉み心を起こしたのであろうか、北陸の宮方と合流することも考えず、黒地の足利方とも戦わず、急に士卒を率いて、伊勢から吉野の方に向かったのであった。

 その結果、これまで鬼神のように恐ろしいと評判であった奥州勢は、自分たちよりも少ない軍勢の黒地の足利方と戦いもせず、あらぬ方角に転進してしまい、しかも奥州軍の後から追いかけてきた足利方の軍が京都に到着したので、宮方は恐れるに足りないと、足利幕府の方では相手を侮り始めたのであった。

 かくして、『太平記』19巻は終わる。宮方の起死回生を狙って奥州からはるばる遠征してきた北畠顕家の企ては竜頭蛇尾の様相を呈してきた。それにしても、足利方が『太平記』では50万余騎、今川貞世(了俊)の『難太平記』でも30万余騎と記されている大軍を迎え撃つのに1万余騎の軍を派遣するというのは奇妙に思われる。それから、桃井直常、土岐頼遠が、北畠軍と青野原で戦ったと書かれている直後に、奥州軍が青野原と、そこから少し後退した垂井、赤坂辺に陣を張っているというのもおかしいといえばおかしい。前回紹介したように、本郷和人さんは、鎌倉からやってきた足利軍が猛スピードで進軍する奥州勢に追いついたこと、そして自分たちよりも大規模な軍勢に対し、小人数の軍勢の逐次投入をしたことの2つが合理的とは言えないと論じている。『太平記』では土岐頼遠に奥州軍が勝ったと記されているが、足利方の大将の一人であった今川範国の息子の貞世(了俊)が書いた『難太平記』には、足利軍が勝ったが、その功績は土岐頼遠に帰せられていて、今川家の武勲が軽んじられていると書かれている。さらに本郷さんは、『太平記』、『難太平記』よりも『保暦間記』の方が歴史的な事実を正確に記録しているとして、足利方が戦闘に勝って、北畠軍が伊勢に迂回することになったのだという解釈を示している。歴史的な事実がどのようなものであれ、このあたりの『太平記』の記述がどうも不自然な作為に満ちていることは否定できないようである。

 一つ付け加えておくと、京都から派遣された幕府軍の中に北近江を本拠とする佐々木(京極)道誉と、南近江を本拠とする六角氏頼が加わっていることが注目され、足利方が地の利を計算していることが見て取れる。特に京極氏は道誉の頃までは、伊吹山の南麓の柏原の清滝寺のあたりを本拠地としていた(道誉の代で、多賀大社の近くの勝楽寺城に移る)。『太平記』の作者は、高師泰の兄の師直とか、佐々木導誉とか、土岐頼遠のような婆沙羅大名たちを嫌っていたことは明らかで、彼らの武勇によって足利方が勝利を収めた青野原の戦いの歴史的な事実を歪曲してまでも、彼らの事績を歴史から抹消したいと思っていたと考えるのは、考えすぎであろうか。
 
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR