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山内譲『海賊の日本史』

7月7日(土)曇り

 6月30日、山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)を読み終える。表題が示すように、またこの本の一番最初のところに書かれているように「日本史上に現れる海賊の歴史をたどっ」(3ページ)た書物である。「海賊」という特定主題に対象を限定しているので、取り上げる時代がかなり広がっていても、このような取り組みは簡単そうに思われるがそうではないと、著者は言う。「海賊」と聞いて浮かぶイメージが人によって異なるからである。

 荒っぽくまとめると、現在使われている海賊という言葉には2つの意味がある。日本史上に実在した海上勢力についての呼び名というのが一つ、もう一つは、パイレーツを含めて世界各地に幅広く存在した、あるいは今なお存在する、海上で非法行為をなす武装勢力の総称である。後者を除外してしまっても、まだ問題は残る。なぜならば、日本の歴史の中で海賊と呼ばれた人々の行為は時代と地方によって異なるし、同じ人物あるいは集団がある時は法律の枠内で活動し、別の時には無法者となるという例もあるからである。

 そういうわけで、この書物の序章では、彼らの活動が最も活発であった戦国時代の瀬戸内海の様相が検討される。そして著者が海賊について把握しているおおよその姿を示したうえで、『海賊の日本史』がたどられることになる。目次を紹介してみよう:
はじめに――海賊とはなにか
序章   海賊との遭遇
第1章  藤原純友の実像
      1 純友以前
      2 承平の海賊
      3 天慶の乱
第2章  松浦党と倭寇
      1 平氏をささえた海上勢力
      2 「党」と一揆契諾
      3 海賊と倭寇
      4 海での生活
第3章  熊野海賊と南朝の海上ネットワーク
      1 薩摩の城を攻める海賊
      2 熊野灘の海賊
      3 熊野山と海賊
第4章  戦国大名と海賊――西国と東国
      1 瀬戸内の海賊
      2 北条氏・武田氏の海賊
      3 海賊から見る西と東
      4 海賊たちの転身
終章   海賊の時代
      1 海賊像の変遷
      2 『海賊』のニュアンス
      3 海賊たちの遺したもの

 今回は、以上のうち、第2章までを取り上げていくことにしよう。
 序章についてはすでに簡単に触れたが、海賊が船舶や旅人を襲って金品を強奪したという記録はあまり残されていないという。そういうことがなかった、あるいは少なかったというのではなくて、「あまりに当たり前すぎて、逆に記録に残されないから」(16ページ)であるという。その乏しい史料からわかることの1つは、瀬戸内海の海賊には狭い海域で活動し、通行料の徴収をこととする小規模で土着的なものと、瀬戸内海を広範囲に活動し、船舶に上乗りなどの行為によって警護料を徴収する有力海賊という2種類があったということである。上乗りはもともと、有力海賊の関係者が実際に船に乗り込むという形で行われていたが、後にはその代わりに「免符」「切手」など様々な名称で呼ばれる通行許可証のようなものを渡すという方法が出来上がったらしい。「免符」や「切手」を航行者に与えるに際しては、警固料が徴収され、それらは帆別料、駄別料、関役、津公事など様々な名称で呼ばれた。また、これらの通行許可証の代わりに、村上氏の家紋の入った旗を渡すようなこともあったという。このような旗はいくつか現存しているそうである。

 第1章では、平将門と東西呼応して中央政府に対する反乱=承平・天慶の乱を起こしたとされる藤原純友をめぐる近年の研究を踏まえて、彼がある時期までは海賊を取り締まる側に属していたことを明らかにし、その彼がなぜ海賊の側に身を投じたか、さらに彼の中央政府に対する姿勢などが論じられる。純友は承平海賊の鎮圧に功績をあげたが、その軍功が認められなかったために、反乱に至ったこと、関白になった藤原基経は純友の大叔父であり、その出自から政府との妥協をはかろうとしたのであるが、部下の暴走に引きずられて反乱に突き進んだと述べられている。
 著者は瀬戸内海とその周辺を主な研究対象としており、純友の活動した範囲についての考察など現地の事情をよく踏まえて取り組まれている。ところで、野口実『列島を翔ける平安武士たち』では、平将門の乱の平定に活躍した桓武平氏に属する坂東武士たちが<水軍>的な性格をもっていたとされること、彼らの一部は九州に移って活動したとされている。このような<水軍>的な性格は、ほかならぬ平将門にもみられたのではないか、とすると、著者のように将門と純友を対比的にとらえるのではなく、両者の共通点を掘り下げるほうが面白いのではないかという感想も出てくる。

 第2章では、鎌倉~南北朝時代の西海(九州西方海上)における松浦党の活動が主な関心事になる。松浦党の名が最初に現れるのは『平家物語』であるという。平清盛は瀬戸内海の航路の整備に意を注ぐなど盛んな海上活動を展開したが、それを支えたのは北九州の山鹿(山賀)秀遠、備後国鞆(広島県福山市)を拠点とする額(ぬか、史料によっては奴賀)入道西寂、阿波の有力者民部大夫重能ら各地の海上勢力であった。京都を追われた平氏が意外に長期間にわたって抵抗を続けることができたのも、瀬戸内海や九州の武士たちとその水軍力の支えがあってのことと考えられる。松浦党もそのような海上勢力の一つと考えられるが、必ずしも平氏一辺倒というわけではなかったらしい。最終的にこの戦いは源氏の勝利に終わるが、阿波の重能の裏切りとともに、伊予の河野氏を中心とする源氏方の海上勢力が次第に力を伸ばしていったことも大きな要因である。これらの海上勢力が「海賊」と呼んでよいような活動をしていたという証拠は見当たらない。海辺部に拠点を持ち、そこでの活動によって水軍力を蓄えてきた在地領主というのが妥当であろう。

 松浦党というのは、九州の西北部に位置する松浦地方を主たる活動の場とした中小武士団の総称である。松浦党の歴史は平安時代から戦国時代までに及ぶが、特に注目されているのは平安・鎌倉時代に見られた党という特異な武士集団の成立とその活動、南北朝時代に結ばれた広範な一族構成員による一揆契諾、さらに前時代を通じて見られた、漁業や交易など海に関わる活動である。
 そのように書いているが、この書物では「党」という独特の武士団の定義や性格についてはほとんど触れていない。「党」について、手元の角川日本史辞典は惣領の統制力のもとに結合した武士団で、例外的に松浦党のように共和的連合の例もあったと記している(私の持っているのは古い版なので、現行版では書き改められているかもしれない)が、安田元久は『武蔵の武士団』で、惣領・庶子の関係も明らかでない共和的結合を保っている武士団という定義をしている。安田は「党」は武蔵七党というように、武蔵にしか見られないとしているが、角川日本史辞典には紀州の湯浅党、隅田党の例を挙げている。このように「党」と呼ばれる武士団が散在しているのには何か理由があるかもしれず、しかもその理由が武士(団)の海上活動と関係するかもしれないので、さらにこの問題を掘り下げてほしいという気がする。
 詳しいのは一揆契諾の方である。「一揆契諾というのは、一族のものが共通の利益を守るために(後には松浦党以外のものも松浦一族を名乗るようになるが)、寄り集まって契約を結ぶことで、南北朝時代を中心に何回にもわたってこの契約が結ばれたことが知られている。」(78ページ) 意思決定に際して「談合」を行い、多数決によって行動の統一を図るという内容は共和的と言えるが、近年ではこのような性格は松浦党の本質にかかわるものではなく、鎌倉時代から南北朝時代にかけての松浦党の変質の中で出現したものだという説が有力なようである。このあたり、さらに研究の深化が望まれるところであろう。

 さて、松浦党は海賊かというと、そのように呼んだ例はあまり見当たらないが、海上での非法行為を働いた形跡はあるという。漂泊船やその積み荷を持ち主に返さずに私物化するのは非法行為とされたが、実際には漂泊地の住民が私物化する例は多かったと推測される。これは瀬戸内海を航行する船から通行料を徴収することが非法とされたのと似通う事例であるという。
 また松浦党は倭寇かというと、日本国内での所領の確保に全力を挙げていた松浦党が倭寇になったとは考えにくく、村井章介さんが論じているように「松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて「境界人」としての特性を発揮したとみるべきだろう」(94ページ)という。
 それでは松浦党の人々は日常的にはどのようなことを生業としていたかというと、松浦党の一派であった青方氏の残した『青方文書』によると漁業と製塩、さらに船材を供給するための船木山を所有し、場合によっては造船も行っていたようである。

 以上、初めの方の部分だけしか紹介・検討できなかったが、新たに得た知見が多く、日本史を海から見直していくことの意義を教えられた一方で、まだまだ解明できていないように思われる謎も見いだされ、両方の意味で読みごたえのある書物ではないかと思う。
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