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森本公誠『東大寺のなりたち』(2)

7月6日(金)雨が降ったりやんだり

 この書物は東大寺の僧として、この寺院の歴史を内側から知り、探索するようになった著者の体験と関心を語る「はじめに」の後、次の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 前回は、第1章の内容を見た。そこでは、聖武天皇が幼くして世を去った基親王の菩提を追修するために建立した山房がさらに国家平安を祈るための寺院となり、大養徳(大和)国の国分寺である金光明寺に発展した経緯が語られていた。今回は第2章を取り上げる。

 第2章「責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観」は、まず聖武天皇が巨大な廬舎那仏像の造立を発願されたことの理由の探索からはじめられている
 日本の古代国家は、天智称制3年(663)に白村江の戦で敗戦して以来、中国(唐)にならって律令体制を採用しようとした。壬申の乱(672)の勝利者である天武天皇は日本独自の律令の制定に取り組むとともに、皇位継承をめぐる権力闘争を回避する手段として天皇の神格化を図った。この2つの流れは、その後も継承され、天武天皇の孫である文武天皇の時代に「大宝律令」が制定された。当時の宣命には天皇の統治権の由来は皇祖神にあり(いわば王権神授説である)、統治の責任を皇祖神に対して負うという考えが盛り込まれている。
 律令制の思想的な基盤をなしているのは「経史」である。「経」は儒教の経典、「史」とは中国古代の歴史書である。これらは中国の権力者たちが長年にわたり培ってきた統治のための哲学と経験則であり、これらを古代の日本は受け継ぎ、帝王学の内容としたのであった。
 聖武天皇は即位後、次々と新しい政策を出しているが、その内容は帝王学として学んだことを実際の政治に生かそうとするものであった。これらの政策は、罪人たちの刑罰を軽減したり、病人に医療を施したりという徳治主義的なもので、その背後には国家を家族になぞらえ、君主は父母として民の面倒を見るべきであるという擬制的家族国家観があった。これは中国の影響によるものである。
 さらに天皇は官人の綱紀粛正と官僚制度の改革を断行し、その過程で保守派の長屋王らを排除していった。このように聖武天皇は儒教的な徳治主義の政治を推進したが、その一方で「釈教」と総称されていた仏教についても一定の配慮を怠らなかった。
天皇は即位2年の神亀2年(725)に社寺の境内が穢臭に満ちているようでは神仏を敬う心は生まれないとして、国司の長官に社寺の境内の清掃を命じた。その際に、寺院については清掃に加えて『金光明経』を読誦して国家平安を祈らせるように、この経典がなければ新訳の『金光明最勝王経』でも構わないと明示した。『金光明経』には君主がその主権を神から与えられているという仏教による王権神授説的な政治思想が含まれているという。聖武天皇はこの考えに深く心を動かされたようである。

 基親王がなくなった翌年、神亀6年(729)は、2月に長屋王の変が起こり、8月には年号が天平と改元され、藤原光明子が皇后となった。〔藤原氏による権力の掌握が進んだと理解することもできる。〕 その一方で、班田収授法に基づく口分田班給が全面的に見直され、経済と国民生活に直接影響の及ぶ改革も進められた。
 このように多忙を極めたはずの時期に、聖武天皇は学習することを怠らず、中国文化の学習に励んでいる。すなわち、天皇31歳の天平3年(731年)には、六朝時代から唐代にかけての詩文集から145編を選んで書写している。正倉院に現存する『雑集』がこれで、2万余字に及ぶ長大なものだという。
 『雑集』に書写された詩文は仏教関係のものが多いが、その中で唐代の僧釈霊実の作品が30首収められていることが注目される。30首の中には開元5年(養老元年、717)と年紀が記されたものがあり、ほぼ同時代の作品といってもよい。森本さんは養老2年(718)に帰国した遣唐使一行に加わっており、大安寺造営の責任者に任じられていた僧侶の道慈が、釈霊実の詩文集を日本に持ち帰り、また聖武天皇に様々な新知識を伝えたのではないかと推測している。「『雑集』の中に、最新の中国仏教思想が盛り込まれている詩文を採録したことは、仏教思想を中国と同時代的に受容しようとした聖武天皇の意思を感じさせる。」(50ページ) しかも、この『雑集』の中には華厳経と廬舎那仏信仰に関わる釈霊実の詩文が含まれているという。既にこの時期に、聖武天皇は華厳経についてのかなりの知識を持ち、廬舎那仏の本質についての認識を深めていたことが知られるという。

 聖武天皇は、このような自身の研鑽と治世の実績で自信を得たのか、天平4年(732)正月の朝賀の儀に当たって、冕服(べんぷく)という中国の皇帝が身につけるのと同様の冕冠と礼服を着て臣下の拝礼を受けた。〔52ページに図が示されているが、横山光輝の漫画で中国の皇帝が着ているのと同じ服装だというのがわかりやすいのではないか。〕
 ところが、この年、干ばつが起き、それを自らの不徳の結果だと認識した聖武天皇は天神地祇をまつり、また罪人に減刑を行うなどの措置を講じるが、干ばつの結果としてその翌年に起きた飢饉を防ぐことはできず、天平6年(734)には大地震が起きた。これらのことから、天皇の気持ちはますます「相手の立場に寄り添って考える」という仏教の思想に近づいて行ったのではないかと著者は論じている。
 「かならずしもこれまでの律令政治の指針を捨てるということではないが、天平6年に至って、仏教を最上のものとして選択し、政治の基軸を仏教に移すと決断したのである。ときに34歳であった。これがその後に苛烈を極めた天災と疫病、そして何よりもそうした天変地異は為政者の政治が悪いからだとする災異思想の呪縛との戦いで、天皇の心の支えとなるのである。」(55‐56ページ)

〔もう少し、先まで紹介したほうがいいのだが、明日(=7日)に、腸の内視鏡検査を受けることになっていて、バタバタしているので、今回はここでやめておくことにする。 それで、明日はこのブログの更新ができるかどうかわからないし、また出来ても、皆様のブログを訪問する余裕ができそうもない。失礼をあらかじめお詫びする次第である。〕
 
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