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ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(3)

7月5日(木)曇り、時々雨

 1848年の6月にヨークシャーのヴェリンダー家の令嬢レイチェルの誕生日の贈りものとしてもたらされたインド伝来のダイヤモンド=月長石は、彼女の誕生祝の晩餐会が開かれた夜に突然、消失してしまった。その後、各方面の捜索にもかかわらず、宝石は見つからず、ついに殺人事件までが起きる…。
 事件が一応の決着を見た1850年5月に、当事者の1人であったフランクリン・ブレークがヴェリンダー邸を訪問し、この事件の真相を書き残す証言集をまとめようという彼の決心を語り、ダイヤモンドの消失の前後の事情についてまとめることを、邸の執事であるガブリエル・ベタリッジに依頼する。
 証言集は、ベタリッジの証言の前に、ある家の記録からフランクリンが探し出してきた「月長石」の由来についての文書を載せている:「月長石」と呼ばれるダイヤモンドは、もともとヒンズー教の「四本の手の神」である月天の神像の額を飾っていた宝石であり、月の満ち欠けとともにその光沢が移り変わると信じられ、またかわるがわる3人のブラーフマンがヴィシュヌ神の命令によりこの宝石を守っており、宝石に手を触れた神を恐れぬ者には災いが下るものと信じられてきた。やがて、この宝石はセリンガパタム(シェリーランガパトナ)のスルタンであるチッポ(ティップー)の手に入り、その短剣を飾っていたが、1799年にこの都市が英軍によって攻撃を受け、陥落した際に、英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に渡った。そして英国に運ばれたものである。

 ベタリッジは、農民の出で幼いうちからハーンカスル家に奉公し、その3番目の令嬢であるジュリアに気に入られて、彼女がヴェリンダー家に嫁いだ後、ヴェリンダ―家の使用人となり、やがて土地差配人を務めるようになり、さらに執事になったのであった。早く妻を亡くしたが、娘のペネロープが無事に成長し、彼女もヴェリンダー家の令嬢であるレイチェルの召使として邸に務めるようになっていた。
 フランクリンの頼みを聞き入れて、手記の執筆にとりかかったベタリッジであるが、宝石の一件についてどのように整理して書いていけばよいのか、さっぱり知恵が浮かばない。そこで彼は娘のペネロープに相談すると、学校で教育を受けて日記をつける習慣を身につけていた彼女は、毎日の出来事をきちんと日を追って書いていけばいいと助言する。その日付については、ペネロープが自分の日記を見て教えるという。それならば手記をペネロープが代筆すればいいようなものだが、彼女には彼女なりの秘密があって、他人に自分の日記は見せられない様子である。
...her journal is for her own private eye and that no living creature shall ever know what is in it but herself. When I inquire what this means, Penelope says, 'Fiddlesticks!' I say, Sweethearts. (Penguine Popular Classics, p.23)
(中村訳) 日記は自分だけがそっと見るもので、何が書いてあるか、他の人には教えないのだといった。それはどういう意味なのかとたずねると、ペネロープは「知らない!」と言った。私はいい人でもできたんだろうと言った。(27‐28ページ)
fiddlesticksは古風な言い方で、怒りや苛立ちを表し、「しまった!」、「くだらん!」と辞書に説明されている。〔文字通りに訳せば、viddle=バイオリンの棒sticksということになる。バイオリンを弾くのは弓bowであって、棒でないのはご存じのとおりである。〕
 ベタリッジの発言には引用符がついておらず、sweetheartには「恋人」という意味もあるが、sweetheartsと複数形であるから「おやおや」というような親から子どもに対する呼びかけのことばとして理解すべきであろう。(随分、大人じみた理屈を言うじゃないか…くらいの気持ちを読み取るべきではないかと思う。)

 1848年5月24日(水曜日、調べてみたところ、確かに水曜日であった、日本では天保暦で嘉永元年(戊申)4月24日ということになる、時差があるが、そんなところまで付き合ってはいられない)、ヴェリンダー卿夫人がベタリッジを呼んで、フランクリン・ブレークが外国から帰ってきて、ロンドンの父親のところに滞在中だが、明日ヴェリンダー邸を訪問し、6月まで滞在してレイチェルの誕生祝に出席すると知らせてきたという。
 前回書いたことをもう一度おさらいしておくと、フランクリンは、ヴェリンダー卿夫人の長姉であるアデレイドの息子で、レイチェルには従兄にあたる。ベタリッジはフランクリンが幼いころのことしか知らないが、
He was, out of all sight (as I remembered him), the nicest boy that ever spun a top or broke a window.
(中村訳) あの方のことはよくおぼえているが、こんなかわいらしい坊っちゃまはないほどで、よくコマをまわしたり窓ガラスをこわしたりなさったものだ。
 どうもこの個所がよくわからない。out of all sightは、中村訳では省かれているが、「目の見えないところにいても」という意味であろう。spin a topは「コマをまわす」ということだが、break a windowは「窓ガラスを破る」ということでいいのだろうか。あるいは、次のように解釈すればいいのか:「あの方は、(私が記憶しているところでは)目の見えないところにいても、最も素晴らしい少年であった。コマをまわしていようと、窓ガラスを割ったりしようと。」 ところが、同席していたレイチェルは反対の意見を述べる。記憶する限りで彼女はフランクリンから乱暴に扱われたというのである。
 
 『月長石』という小説の特徴は、様々な人間の手記から構成され、それぞれの人間が自分の主観的な目で事件を回想している。そのために個々の人物の評価が、書き手によって異なり、読者はその異なる判断をもとに、事件の真相をつきとめなければならないというところにある。ここで、子ども時代のフランクリンをめぐり、ベタリッジとレイチェルの評価が分かれているのもその一例である。もっとも、レイチェルが自分の本心を隠していることもありうるのであるが…。
 もう一つ気をつけていいことは、1848年6月21日にレイチェルは満18歳の誕生日を迎えることになるが、フランクリンは25歳ということであり、両者には大体7歳の年の差がある。レイチェルが記憶するフランクリンは少なくとも11歳くらいにはなっているはずで、もしレイチェルが言うように彼が彼女を乗馬のように扱ったとすると、これは少年と幼女の遊び方としては異常に思われる。レイチェルの記憶があいまいになって、ほかのだれかの記憶と混同されていると考えるほうがいいのかもしれない。
 さらにもう一つ、フランクリンの幼年時代に、ベタリッジはヴェリンダー邸の執事ではなく、土地差配人だったはずで、家族の人々とどの程度日常的に顔を合わせていたかというのも疑問である。

 フランクリンが子ども時代をヴェリンダー邸で過ごし、その後、なぜ邸を訪問しなかったかというと、彼が外国で教育を受けていたからであるとベタリッジは言う。すでに述べたように、フランクリンの父はヴェリンダー卿夫人であるジュリアの姉アデレイドの夫であるが、大金持ちであるとともにある公爵家の一族で、現在の当主ではなく自分こそが正統の後継者であるという訴訟を起こし、その裁判の過程で夫人(つまりヴェリンダー卿夫人の姉)と自分の3人の息子のうちの2人をなくし、しかも訴訟は敗訴に終わったので、英国に復讐するつもりになった。しかも彼は子どもが嫌いだったので、一人だけ残った息子のフランクリンをドイツの学校に送ったのである(ご本人は英国の国会議員たちを啓蒙し、現在の公爵に対する声明書を執筆するために英国にとどまっていた。ベタリッジはかなり抑えた調子で書いているが、フランクリンの父はかなり独善的で思慮の浅い人物のように思われる。)

 いよいよ話題はダイヤモンドに及ぶことになる。
The Diamond takes us back to Mr Franklin, who was the innocent means of bringing that unlucky jewel into the house.
(中村訳)「ダイヤモンドというとフランクリンさまを思いだすが、あの方にしても、べつに悪気があってあの不吉な宝石をお邸にもちこんだわけではなかった。」(30ページ)
 持ち込んだ事情については、物語の進行につれて明らかになる。ただ、悪気がないにせよ、(父親譲りということであろうか)思慮が浅かったことだけは否定できない。

 フランクリンはドイツの学校で教育を受けたのち、フランスに移り、さらにイタリアに出かけた。文学、美術、音楽…あらゆることに自分は才能があると思い込み、手を出した。〔これは多少の才能がある人間にはありがちなことで、ゲーテやトルストイの青年時代のことを思い出せばいい。彼らはいろいろなことに本当に才能を発揮したのであるが、ただそう思っているだけで、実際にはすべて三日坊主に終わるという青年が多いことも否定できない。〕 そしてフランクリンはあちこちで借金を重ねた。「成年に達したとき、お母さまの遺産が(年額700ポンド)あの方のふところにはいり、まるでザルから洩るように、右から左へと消えてしまった。あればあるほど、お金をほしがられた。フランクリンさまのポケットには、どうにも縫いあわせようのない穴が開いていたらしい。」(30ページ)

 フランクリンのように英国の上流階級に属する少年は、家庭で親または家庭教師による教育を受けた後、パブリック・スクールに進学する例が少なくなかった。1848年に発表されたウィリアム・メークピース・サッカレーの『虚栄の市』に登場するウィリアム・ドビンは裕福な商人の息子であり、上流とは言えないが、19世紀のはじめごろに、やはりパブリック・スクールで教育を受けている。しかし、パブリック・スクールの教育が名実ともに英国の教育のdefining institution(定義的施設)になるのはトーマス・アーノルド(1795‐1842)がラグビー校の校長としてパイングランドのパブリック・スクールの改革を行った1828年から1842年にかけての後のことであるといってよい。『虚栄の市』に戻っていえば、ベッキー・シャープとアミーリア・セドリーはロンドンのチジック・モールにあったアカデミーで教育を受けており、19世紀の前半について言えば、アカデミーがパブリック・スクールを凌いで教育の主流になる可能性もなくはなかったのである。だから教育の水準ということで言えば、フランクリンは同世代の英国の紳士に引け目を感じることはなかったはずであるが、友人をつくるとか、社会のしきたりを知るとか、そういう意味での不利益を受けたかもしれないということを念頭においてほしい。それから、母親の遺産の年に700ポンドというのはかなり莫大な額であって、少し時代は前になるが、ジェーン・オースティンの小説の登場人物が年に約200ポンドの収入のある牧師禄を得たことで、結婚が可能になったという話を思い出してほしい。

 しかし、フランクリンは人好きのする青年であったので、あちこちで歓迎され、なかなか英国に戻ることはなかった。some unmentionable woman (あるいまわしい女性)が邪魔をしたのだと、少し遠慮しながらベタリッジは書いている。そして2度、帰国に失敗して、3度目にようやく帰国したのである。以上、ベタリッジが書いてきたことから浮かび上がるのは、人のいい、しかし思慮の浅い、ある意味でだまされやすい青年の姿である。人好きがするといっても、どんな人間から好かれるかということも問題である。とにかく、翌日、ということは1848年5月25日、木曜日にフランクリンはヴェリンダー邸にやってくるはずである。次回はそして何が起きたかを書いていくことにしよう。

 『月長石』を読んでいて、これが1848年に起きた事件を扱っていること、フローベールの『感情教育』とほぼ同じ時代の、同じ年代の青年たちを登場させていることに気づいた。『感情教育』は今のところ1846~7年の動きを追っているのだが、まもなく1848年の二月革命が起きる。フランクリンが1822年か1823年の生まれ、『感情教育』のフレデリックは1821年か1822年の生まれと考えられ、ほぼ同じ年齢である。しかし、両作品の中で描かれている社会の動き、主人公たちの思想と行動はかなり違うことに気づくはずで、それが国の違いによるのか、それとも作者の気質の違いによるのかを考えることは興味深い問題ではないかと思う。
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