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トマス・モア『ユートピア』(8)

7月4日(水)曇り、時々晴れ、暑い。

 1515年、イングランドの法律家であったトマス・モア(1477/78-1535)は、イングランドとカスティーリャのあいだに起きた紛争を解決するための外交使節団の一員としてフランドルに赴き、会議の中断中に、アントワープの市民であるピーター・ヒレスの歓待を受ける。ある日、モアはヒレスから世界中を旅してきた哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。彼は(1503年から1504年にかけて行われた)アメリゴ・ヴェスプッチの新世界への第4回目の航海に同行しただけでなく、帰国せずにそのまま現地にとどまり、さらに各地を周遊してヨーロッパに戻ってきたという。ラファエルの博識とその経験とに感心したモアとピーターはどこかの王侯に仕えてその顧問として彼の知見を活かすように勧めるが、王侯の取り巻きが無定見であることを知っているラファエルは固辞しつづける。モアとピーターはプラトンの哲人王の主張を引き合いに出すが、ピーターは国王に哲学を尊重する気持ちがあることはまれであるという。国王とその取り巻きたちの主要な関心は他国への侵略戦争なので、平和主義者のラファエルには耐えがたいものである。〔モアが1515年にフランドルに出かけたのは実際の出来事で、ヒレスも実在の人物である。というより、モアの書いた原稿をもとにエラスムスと協力して『ユートピア』という本を出版したのがほかならぬヒレスである。フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは新世界に4回の航海を試み、それが欧州人には未知の「新」大陸であることを主張した人物であるが、彼が本当に4回の航海を行ったのかをめぐっては議論が続いている。とくにラファエルが参加したという4回目の航海は本当に実行されたのか疑問視されているようである。ラファエルがコロンブスではなくて、ヴェスプッチの航海に同行したという設定の中に、モアを含むルネサンス人の新大陸への航海をめぐる認識が現れていると思うのは私だけであろうか。〕

 前回の最後の方で触れたように、ラファエルは特にフランス国王がイタリア侵略を盛んに推進していることを非難している。そしてその国王に向かって、「イタリアなどは忘れるべきだ…フランス王国一つでさえも、一人の人間によってうまく統治されるには大きすぎるし、そもそも王はほかの国々の併呑などを考えなさるべきではないのだから自領に引っ込んでおられるのがよい」(97ページ)などといっても、その意見が採用されるわけがないという。まして、ユートピア人の島の南南東に住む、アコール人たちの法令を採用するように提案したら、どうなることであろうかという。

 アコール人と訳されているのはAchoriiでギリシア語のαχωρος(場所なしの)という言葉からの造語で、placeless peopleという意味だそうである。
 「アコール人たちは大昔に戦争をやり、古い血族関係をたてにして相続権ありと王が主張していたほかの王国を獲得しましたが、それをとってから彼らは、この王国を維持するための苦労や面倒は、獲得するために費やした苦労と比べて皆無といえないこと、やれ内乱だ、やれ外敵の侵入だというような混乱の萌芽が常に被征服者たちの間に萌してくるものだということ、つまり被征服者たちのために、または彼らに敵対して常に戦っておらねばならず、軍縮をする機会は決してないということを知ったのです。」(97-98ページ) しかも本国はというと経済的に疲弊し、金は海外に流出し、多くの犠牲を払ったのに、生活風習はむしろ堕落し、社会は安定を失ったという。つまりもともと領有していた国も、新たに獲得した国も両方ともその政治がうまくいかず、社会も不安定になってしまったが、「これも、王が2つの王国の面倒見で気が散っていて、どちらに対しても十分心を向けることができなかったからです。」(98ページ)
 これはアコール人たちの国などという作り話を設けなくても、その当時のヨーロッパではありふれていた現象である。ルネサンスすなわち古代の古典的な文化の復興が起きた時代は、その一方で各国で絶対主義王政がその形を整え、国民国家が形成されてゆく時代でもあった。わかりやすい記述として、Hendrik Van Loon, The Story of Mankindの中のこんな箇所をあげてみよう。「1500年という記憶しやすい年に、世界がどんな姿をしていたかを見てみると、この年は(神聖ローマ帝国の)皇帝カールⅤ世が生まれた年であるが、このようなものである。中世の封建的な混乱は高度に中央集権化された多くの王国の秩序に取って代わられていた。すべての君主の中でもっとも強力であったのは、当時はゆりかごの中の赤ん坊であった大カールである。彼は(アラゴンの)フェルディナンドと(カスティーリャの)イサベルの、また中世の騎士たちの最後の1人であるハプスブルク家のマクシミリアンの孫であった。マクシミリアンの妃のマリーはブルゴーニュのシャルル突進公の娘であり、突進公はフランスとの戦いを成功裏に進めたが、独立を目指すスイスの農民たちに殺害されたのであった。それ故にカールは地図の大部分の、アジア、アフリカ、アメリカにあるすべての植民地とともに、ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインにある彼の両親、祖父母、叔父たち、いとこたち、伯母たちの全ての領地の相続者として生まれたのであった。」(Loon, 1973, p.242) この時代にはアラゴンとか、カスティーリャとか、ブルゴーニュとかナヴァールとかいう小さな王国、公国が姿を消し、スペインとかフランスとかいうより大きな王国、帝国が成立していた。イングランド(とウェールズ)におけるチューダー王朝の支配の成立は、封建的な貴族の没落を意味していた。『ユートピア』はこのような統治形態の変化の血なまぐさい様相を目の当たりにしながら書かれている。〔ルネサンス時代に限らず、平和を守るとか、国際秩序を維持するというような一見したところでは非の打ちどころのない大義名分を掲げて、他国に恥知らずな軍事介入することは、現在でもまれではないことをご存じのはずである。〕 おそらくはあまり生々しい表現を用いることは、当局を刺激することになると、寓話的な表現をとることにしたのだと思われる。モア自身が政府高官の一人なのだから、よけい表現には慎重にならざるを得ないのである。

 結果として、この国王の参議会員たちは、国王に対し、2つの国のどちらかの統治をあきらめ、1つを選んでほしいと丁重に頼んだ。国王は賢明な人物であったので、この頼みを聞き入れ、もともと彼が治めていた国の方を選び、新たに獲得した国は彼の友人の一人に譲り渡した。
 もし、この例を、ヨーロッパのどこかの国の国王に語り聞かせたら、おそらく否定的な反応しか返ってこないだろうという。
 さらに国王たちの宮廷では、新たな税金制度を設けたり、貨幣政策を改めたり、様々な方策を用いて民衆をいかに収奪して、国王の富を豊かにするかについての方策が盛んに議論されているという。民衆を貧困な状態にすることこそ平和の要諦であると議論されている。さらに、ここでは軍隊を養うために金はいくらあっても足りないものであるというローマの大金持ちのクラッススの言葉が思い出されてよい(クラッススは、スパルタクスの反乱を鎮圧し、カエサル、ポンペイウスと第一次三頭政治を行ったローマの富豪、政治家であるが、澤田さんによると、ここでのラファエルの引用は、元の意味とは違った意味で用いられているそうである)。
 王侯の取り巻きたちは、こんな考えに賛同しているのだが、ラファエルの考えは違う。彼は「君主というものは、自分自身よりも彼の民がよく暮らせるように、いっそうの配慮をすべきものだ」(102ページ)と考えている。そして、貧しい民衆の支配者であるよりも、豊かな人々を支配することのほうが君主にとって名誉ではないかという。「王は人に迷惑をかけず自分の所得で生活し、支出を収入に合わせ、犯罪非行を抑えるようにすべきであり、犯罪非行を放置しておいて後で罰するよりも、民衆を正しく教育することによって、これを未然に防止すべきである。」(103-104ページ) 国王が自分自身よりも臣民たちの豊かさを重んじるようなありかたとしては、ユートピアからさほど遠くないところにあるマカレンス人の制度を見るのがいいだろうとラファエルは言う。次回は、そのマカレンス陣の制度についてみていきながら、さらにユートピアに近づいていくことになるだろう。
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