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『太平記』(217)

7月3日(火)晴れ、暑い。

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、白河結城家の結城宗広をはじめとする奥州の軍勢を集めて、8月19日に白河関を発ち、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男、後の室町幕府二代将軍)の軍と利根川で戦って勝利した。〔戦闘がいつ、どこで行われたかを『太平記』の記事から知ることはできない。この時代の利根川の流れが東京湾に注いでいたことは知られているが、より具体的にどのようなものであったかを正確に知ることはできないようである。ただ顕家の率いる奥州軍は鎌倉街道の中の道を進んだと考えると、現在の栗橋市付近で戦闘が行われたと推測できる。中の道を進んだとすると、その後、顕家軍が武蔵国府に滞在して様子を見たということとも矛盾しない。『太平記』本文には、足利義詮が上杉憲顕を大将として派遣したとあり、義詮自身が出陣したとは書かれていない。〕
 伊豆では鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男である相模次郎時行が、上野では新田義貞の次男徳寿丸(後の義興)が挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。〔鎌倉街道の上の道から攻め込んだ奥州軍に斯波家長が敗死し、その他の軍勢は散り散りになりながら逃げたと記されている。〕
 建武5年(この年8月に改元し、暦)応元年、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。60万余騎の奥州軍が西へと急行し、そのあとを8万騎の足利軍(上杉憲顕、桃井直常、高師茂、坂東八平氏、武蔵七党、芳賀高名らの軍勢に途中から、今川範国、土岐頼遠らが加わる)が追いかけるという展開になった。

 北畠顕家の軍勢を追う関東からやってきた足利勢は、美濃の国に到着して軍議を開き、将軍足利尊氏はおそらく宇治、瀬田の橋板を取り外して、応戦されるだろう。この作戦をとった場合、奥州軍はなかなか渡河できず、無為に日々を過ごすことになるだろう。そうして敵が倦み疲れて弱ったところを川の向うの味方とあい呼応して攻め立てれば、たちどころに勝利できるだろうという話合いになった。
 その時、それまで黙って話し合いを聞いていた土岐頼遠が口を開き、「そもそも、目の前を進軍していく敵を、それが大勢だからといって、矢の一本も射かけないで、後になって疲れるまで待つというのは、昔楚の宋義が「虻を殺すには、その馬を撃たず」といったのと似ているのではないか。世間の評価は、この目の前の敵との一戦にある。都にいる味方がどう動くかはまだわからないのである。頼遠の考えでは、命がけの一戦をして、義によって(戦死して)さらすことになった屍を墓場の苔に朽ちさせようと思っている」と断固として言い放ったので、他の大将たちもその言い分を認めて、この意見に賛同したのであった。〔ここで頼遠が言っているのは、あてにならない先のことばかり考えて、事態の本質を見失うべきではない。目の前の敵と戦うべきであるということであろう。その意味で、この引用が適切かどうかは、また別の問題である。岩波文庫版の脚注に詳しい解説が出ているが、この話は『史記』の「項羽本紀」に出てくるそうで、『太平記』の作者が必ずしも正確に元の話を理解していなかったことが読み取れるが、詳しいことは各自で調べてみてください。他の大将たちは、利根川の戦い、鎌倉の攻防戦と連戦し、東海道を猛スピードで進撃する奥州軍を追いかけてきてへとへとになっているのに対し、頼遠はずっと美濃にいたので、元気いっぱいで、そのあたりの状態の差が意見の違いになって表れている。このように勇ましいことを言われると、なかなか反論をしにくいというのは、会議の中ではよくありがちなことである。〕」

 奥州勢の先陣は垂井、赤坂あたりについていたが、痕から追いかけてきた後攻めの軍勢が近づいてきたという情報が入ってきたので、まずその敵を退治せよということで、3里引き返して、美濃、尾張両国のあいだのあちこちに陣を構えて敵を待ち構えた。
〔足利勢は美濃で軍議を開いたと書かれているのに、奥州軍は美濃、尾張の両国の国境付近まで戻ってきたというのがどうも腑に落ちない。〕
 後攻めの勢(足利勢)は、8万余騎を五手に分けて、攻撃の順番を鬮(くじ)で決めたので、まず一番に信濃の守護小笠原貞宗と、芳賀禅可(高名)が2千余騎で、自貴(じぎ、食=じきともいう。岐阜県羽島郡岐南町の旧地名。したがってこの渡しというのは木曽川の渡しということになる)へと駆け寄せれば、奥州の伊達郡、信夫郡の兵たち3,000余騎が川を渡って対抗して戦い、芳賀、小笠原は散々にかけ散らされて、大敗を喫したのであった。

 二番手として、高(大和守)重茂が3,000余騎を率いて墨俣川(長良川)を渡河して攻撃をかけようとしたが、川を渡り終えないうちに相模次郎時行が5,0000余騎で攻めかかり、互いに笠符(かさじるし)を目印にした馬上の組討となり、組んで落ち、落ち重なって首を取る。約1時間余り戦闘は続いたが、大和守の頼みとしていた300余騎の兵が戦死したので、東西にばらばらになって逃げ、山を退却場として引き上げた。

 三番手として今川範国(貞世の父)、三浦新介高継が阿字賀(羽島市足近町)に進出して、横合いに攻めかかろうとしたが、奥州勢の南部、下山、結城宗広が1万余騎でこれを迎え撃ち、火が出るほどの激しさで戦った。三浦、今川はもともと少数だったので、この戦闘にも負けて、川から東へと引き退いた。

 四番手として、上杉憲顕、憲成の2人が武蔵、上野の兵たち都合1万余騎を率いて、青野原(大垣市青野町から不破郡垂井町一帯の野原で、後には関ヶ原と呼ばれるようになった)に攻め入った。奥州軍からは新田徳寿丸と宇都宮の紀清両党が3万余騎で立ち向かう。上杉の紋は、竹に対雀(むかいすずめ)、新田は大中黒、宇都宮は右三つ巴、両軍の武士たちはともに北関東の日ごろから知り合っている間柄だったので、卑怯なふるまいをして後々までの物笑いの種になるようなことはしまいと、互いに一歩も退かず、命の限り戦った。両者死に物狂いの戦闘が展開されたが、数に勝る奥州勢が勝利をおさめ、上杉方はついに敗れて、右往左往に落ちてゆく。

 五番手として桃井播磨守直常、土岐弾正少弼頼遠が精鋭ばかり1,000余騎をすぐって、はるかに開けた青野原に打ち出て、敵を西北に受けて控えた。ここには国司鎮守府将軍顕家卿、その弟の顕信、出羽、奥州の6万騎の軍勢を率いて迎え撃つ。敵味方の数を数えると、奥州勢1,000騎に足利勢1騎で向かっても、まだ足利方が足りないという様子であったが、土岐と桃井はひるむ ことなく、前に恐れるような敵はいないし、後ろに退こうとする心は全くないような様子であった。鬨の声を挙げる時間も惜しむ様子で、1,000余騎が一体になって敵の大勢の軍勢の中に駆け入り、半時ばかり戦ったが、さっと戦いを切り上げて敵中を駆け抜け、軍勢を点検してみると、300余騎が戦死していた。残る700余騎をまた一手にまとめて、奥州勢の副将軍である北畠顯信の控えていた3万余騎の中に駆け入り、東に敵を追い、南に駆け散らし、汗をかいている馬の足を休めようともせず、太刀の切り結ぶ音を止めるときもなく、や、という声を出して切り結び続けた。

 1,000騎が1騎になるまでも、引くな、引くなと互いに気を励まして、これが勝負の分け目と戦ったのではあるが、雲霞のような敵の大軍に圧倒され、ここかしこで包囲され、勢いがつき、気力も衰えてしまい、700余騎だった軍勢も次々に討たれて23騎に減ってしまい、土岐頼遠も左の眼の下から右の口脇、鼻まで切り傷を負い、長森の城(岐阜市長森)に退却する。桃井も30回を超える攻防に、率いる武士は76騎にまで減ってしまい、乗馬の尻や、鬣の下の部分まで太刀を浴びせられ、戦いにつかれたので、戦闘はこの戦いに限らないぞ。さあ、者ども、馬の脚を少しばかり休めようと、墨俣川(長良川)に馬を乗り入れて休ませ、太刀、なぎなたの血を洗って、日が暮れたので、野原にそのままとどまり、川を東側に越えることはなかった。

 本郷和人さんは、この『太平記』の記述について、次のように疑問を投げかけている。
「・・・第一に北畠軍がものすごいスピードで行軍しているとすれば、追いついたこと自体に疑いが生じます。
 第二に、軍勢を寡兵に分けて攻撃すること、つまり少人数の逐次投入は絶対にやってはいけない軍事の初歩です。多数の敵に対して兵力を分散して逐次攻撃をかけると、攻撃のたびに全滅させられる危険性が高いからです。その禁じ手をあえてやったと『太平記』は書いていますが、どこまで本当なのか首を傾げます。
 関東から追いかけてきた武士たちは、土岐頼遠らの幕府軍に合流したと考えるのがよいと思いますが、もしかしたら軍事の初歩を逸脱するような愚かな戦いをした可能性もなきにしもあらず、悩ましいところです。」(本郷『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』、84‐85ページ)

 第一の問題については、北畠軍が猛スピードで行軍すれば、当然その軍の中から脱落者が出る。その脱落者の運命はというと、次の3つの可能性が考えられる。①追いかけてきた足利軍に討ち果たされる。②足利軍に合流する。③そのまま郷里に帰る。
奥州軍が徹底的に略奪した後を追いかけた足利軍は、このような脱落者を捕まえながら、彼らの略奪分を当てにして補給行動を行っていたと思われる。『太平記』の他の個所を見ても、②の可能性というのが非常に高い。移動中は行動を共にして、戦場になると敵味方に分かれる事例というのも少なくはない。第二の問題については、『太平記』の作者の潤色がかなりあると考えたほうがよく、青野原での戦いとその前哨戦とを一緒にして(ある意味では確かに一つのまとまりなのだが)描き出しているのではないかと思われる。もう一つ、本郷さんは見落としているが、この5次の戦いで、戦場は尾張と美濃の国境から美濃と近江の国境近くまで移動している、そのことを考えると、実は足利方の方が有利に戦闘を進めていたとも考えられるということである。
 本郷さんも認めているように、土岐頼遠というのは非常に有能な武将であったが、軍議の際の彼の発言は、『太平記』の他の部分で描かれている彼の姿と少し違っているようにも思う。このあたり、さらに資料を探しながら、考えを深めていく必要がある。奥州軍の事実上の指揮官は、本郷さんの言うように結城宗広であっただろうが、足利勢は尊氏の従兄弟の上杉憲顕であったと思われる。その存在感が薄く、土岐頼遠と桃井直常の存在感が濃いところが一番の問題かもしれない。

 青野原での戦闘の報せに驚いた京都の足利幕府は防衛軍を派遣することになる。その結果はどうなるかというのはまた次回。 
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