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『太平記』(201)

3月13日(火)晴れ、温暖

 建武4年(南朝延元2年、1337)、足利尊氏・直義兄弟は持明院統の光厳院、光明帝(前年8月に即位)を擁して京都を抑え、京都での幽閉から脱出した後醍醐帝は吉野の金峯山寺で兵を募り、後醍醐帝から東宮恒良親王、一宮尊良親王らを託され、北国で再起を図るように命じられた新田義貞は敦賀の金ヶ崎城にこもっていたが、高師泰や今川頼貞らが率いる大軍に包囲されて身動きが取れなくなっていた。
 正月11日、南越前の杣山城を本拠とする瓜生兄弟に大将として擁立されていた脇屋義治(義助の子、新田義貞の甥)は、新田一族の里見伊賀守を大将として金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、高師泰・今川頼貞の軍に敗れ、大将の里見と瓜生兄弟のうち2人が戦死した。瓜生兄弟の老母は、義治の前で涙ながらに兄弟の戦死を誉れとする由を述べた。一方、後攻めを失い兵糧不足に陥った金ヶ崎城では、2月5日、新田義貞・脇屋義助らが城を脱出して杣山に入ったが、金ヶ崎への後攻めの機会はなかなか訪れなかった。3月6日、将兵の食糧がなくなり、身動きができなくなった状態の金ヶ崎城は寄せ手の総攻撃を受けて落城した。一宮尊良親王、新田義顕らに加えて、城中の兵たちも自害した。

 後醍醐帝が義貞に北国へ向かえと命令された理由の一つは、越前一宮である気比大神宮の大宮司一族が金ヶ崎城を築いて、宮方の武士を迎え入れる用意をしているからであったが、その城が落ち、また大宮司である気比弥三郎も尊良親王や新田義顕に殉じて死んでしまった。弥三郎の長男の気比大宮司太郎は、前年の10月に小笠原貞宗が城を浜際から攻めた際に武勇のほどを見せた怪力の持ち主で、しかも水泳の名手であった。そこで彼は東宮=恒良親王を小舟にお乗せして、櫓や櫂が見つからなかったので、舟の纜を自分の褌の腰に巻いた部分と結びつけ、海の上30町(1町は約109メートル)を泳ぎ、敦賀湾をはさんで金ヶ崎の対岸にある蕪木の浦(福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらき))へと到着した。このことを知っている人は誰もいなかったので、宮を背負って杣山に落ち延びることは、極めて容易であったはずなのに、太郎はそうしなかった。

 というのは、一宮をはじめとして、城中の人々が一人残らず自害したのに、自分1人が逃げて生きながらえれば、世間の物笑いになるだろうと思ったのである。そこで東宮を漁師のみすぼらしい家において、「これは、日本国の王にならせ給ふべき人にてわたらせ給ふぞ。いかにもして(なんとしてでも)、杣山へ入れまゐらせてくれよ」と申しおいて、蕪木から取って返し、元の海上を泳いで渡って、父弥三郎太夫が自害して倒れ伏しているその上に、自分で自分の首を掻き落として、片手にひっさげながら、大肌脱ぎ=上半身裸になって死んだ。
 気比大宮司太郎の最期は異様で、果たして自分の首を切り落とした後に、それを片手でひっさげることができるだろうか疑問に思われるのだが、彼の怪力や勇武を際立たせるための筆の運びであろうか。そのように彼の怪力や勇武が強調されればされるほど、彼の知恵の浅さも際立ってくる。あるかどうかもわからない世間のそしりを気にして、自分で杣山につれていかなければならない東宮を、信頼できないし、信頼すべきでもない漁師に託している。いくら彼が声を大にしてそのように言っても、漁師には漁師の生活や考え方があるから従うとは考えられない。本人は自己満足のうちに死んだかもしれないが、太郎の判断ミスは歴史に大きな影響を及ぼすのである。

 土岐阿波守(不詳、美濃の土岐一族は大半が足利方に加わっている中に、17巻で義貞とともに北国へ赴いた武士の一人として土岐出羽守頼直の名が挙げられている)、新田の家臣である栗生左衛門(脇屋義助と新田義顕が金ヶ崎に戻る際に活躍し、さらにその後小笠原貞宗の攻撃を受けた際にも手柄を立てた)、同じく矢島七郎(上野国群馬郡矢島郷に住んだ武士で、小笠原貞宗の攻撃を受けた際に活躍した)の3人も一緒に腹を切ろうとして、岩の上に立ち並んでいたのを見かけた、新田義貞の執事であった船田義昌の子である経政が「新田一族の運河、ここで尽きたと思ったのであれば、ここで皆が討ち死にするべきであろうが、総大将である義貞・義助のご兄弟は杣山にご健在であるし、公達も3,4人あちこちに散らばって生き延びておられる、まだ名分がうすなわれていない以上、我々1人でも生き残って、大将や公達のために御用を務めるのが、長い目で見れば忠義というものではないか。これという深い考えもなしに一緒に自害して、敵に得をさせて何になるか。こっちへ来なさい。もしや生き延びられるかどうか、試しに隠れてみよう」といったので、3人もこれに同意して、船田の跡について、はるか磯の方へと下って行った。遠浅の波を分けて半町ばかり行くと、磯を打つ波に削られて、大きな岩穴ができているのを見つけた。「ちょうどいい隠れ家だ」と言って、4人ともにこの穴の中に隠れて、3日3夜を過ごした。どんな気持ちでこの時間を過ごしたのであろうか。

 城の大将である新田義顕のところに戦況の不利を知らせ、東宮らの脱出と義顕らの自害とを促した由良(新田の家来で、群馬県太田市由良町の武士)、長浜(武蔵の丹党の武士)は再び木戸口に取って返して、のどが渇けば自分のけがの傷口から流れてくる血を飲み、疲れて力が出なくなってくると、前に倒れている死人の肉を食べて、主人たちが腹を切る時間稼ぎのために戦っていたが、安間(あま)六郎左衛門(淡路=兵庫県南あわじ市阿万の武士)が走ってきて、「いつ勝機があるかと思って合戦を続けているのか。大将はもはや自害されましたぞ」と言ってきた。「そういうことならば、どうせ助からない命だから、敵陣に紛れ込めば、もしかすると大将の近くに行くことができ、しかるべき敵と刺し違えて死ぬことができるかもしれないから、そうしよう」と、生き残っていた50人余りの兵が、3か所の木戸を同時にあけて打って出た。城を囲んでいた寄せ手3,000人はこの決死の兵にたじたじとなって後退し、城兵たちは寄せ手の中に紛れ込むことができ、大将である高師泰の陣に近づくことができた。いかんせん、城から出た武士たちの様子は、やせ衰えてやつれ果てていたので、他の武士と比べて一目で見分けがついてしまう。足利方の兵は見分けがつくので、彼らとは距離を取り、結局一人もしかるべき敵を討取るに至らず、全員があちこちで戦死してしまった。

 金ヶ崎城にこもっていた将兵の数830人、その中で敵に降参して命を助けられた者12人、岩の中に隠れて生き延びたものは4人、その他の814人は、腹を切ったり討ち死にしたりしてしまった。今に至るまで、その怨霊がこの地に留まって、月が曇り雨が降って暗い夜は、食を求めて叫ぶ亡霊の声が悲しげに響き、人をぞっとっせるという。
 唐の詩人陳陶(812?‐885?)は安史の乱(755-763)に遭遇して、漢の時代、匈奴と戦い敗れて捕虜となった李陵の軍に託して戦争の悲惨さを歌った隴西行という詩を作った。それは
  匈奴を払はんと誓ひて身を顧みず
  五千の貂錦(ちょうきん)胡塵に喪(ほろ)ぶ
  憐(あわ)れむべし無定河辺の骨
  猶是れ春閨(しゅんけい)夢裡の人
(岩波文庫版、第3分冊、253ページ、匈奴=北方の蛮族の征伐を誓ってわが身を顧みず、漢の李陵の率いる五千の兵士は胡の地の塵となった。憐れむべきは無定河(陝西省北部を流れる川)のほとりに散った兵士たち、今なお故郷で待つ妻の春の夜の夢に現れる。貂錦というのは貂の皮の帽子と錦の服、それを身につけた兵士ということで、ここでは後者の意味である。陳陶は晩唐の詩人であり、安史の乱には遭遇していないのだが、『太平記』の作者の頭にはそういう年代の違いは入っていなかったのであろう。それにしても陳陶というあまり知られていない詩人の詩がこんなところで引用されているのは、不思議である。

 夜が明けて、蕪木の浦から、皇太子恒良親王が潜んでおられるとの密告があったので、今川頼貞が迎えに出かけて身柄を引き取った。
 前夜、金ヶ崎で討ち死に、自害をした首854を並べて、首実検をしたところ、新田一族の首には、越後守義顕、里見義氏の首だけがあって、義貞と義助2人の首がなかった。さてはきっとその辺の海底に沈んでいるのかというので、海人を潜らせて調べてみたが、まったく見つからなかったので、司馬孝恒が、東宮のところへやって来て、「義貞、義助2人の死骸が、どこにあるともわからないのですが、どうなっているのでしょうか」とお尋ねしたところ、東宮は、まだ年若く、考え深くない年ごろではあったが、彼らが杣山にいると敵に知らせたならば、すぐさまここから攻め寄せるに違いないとお思いになられたのであろう、「義貞、義助2人は、昨日の暮ほどに自害したが、その家来の者どもが将士の詰所の中で、火葬にすると相談していた」と仰せられた。孝恒は「それでは、その死骸がないのももっともなことである」と納得して、死体を探すのをやめた。とりあえず、杣山の敵は大したことはないので、こちらから仕掛けなくても、今すぐに降参してくるだろうと、しばらくは攻撃を延期したのであった。

 宮方の拠点の一つであった金ヶ崎城が落城した。気比大宮司太郎の超人的な働きでいったん落ち延びかけた恒良親王がその太郎の判断ミスで足利方にとらえられたのは宮方にとっては痛い失点である。東宮が義貞・義助の行方について斯波高経を欺くだけの頭の働きを見せているだけに、この点は惜しい。北国の宮方は大将たちは残っているが、宮様方を失い、大義名分の色が褪せてしまったのが、今後の不安を感じさせる。 
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