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エラスムス『痴愚神礼賛』(10)

3月2日(金)晴れ、温暖

〔これまでのあらすじ〕
 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が、自賛の演説をします。世の中を明るく楽しいものにし、神々にも人々にも若さを保たせるのは自分だというのです。人生も、国家も、学芸も、実は痴愚が支配している、痴愚こそが人間を幸福にするものであり、その証拠に王侯は阿呆者を道化師として寵愛し、彼らは現世でも来世でも幸福に暮らすといいます。何かに夢中になるというのも痴愚の一種であるが、夢中になっているご本人は幸福なのだし、迷信や作り話に夢中になる人々は彼らの時間つぶしをしているのだし、僧侶たちもそれで儲けることができるといいます。〔ここでは痴愚の女神に人間の愚かな執着心や迷信を賛美させることで、それらを批判していると受け取ることができます。〕

〔41〕
 前回に引き続き、女神はキリスト教の聖人たちを巡る迷信の数々を列挙します。あちこちの寺院で願いがかなったということで、奉納された品物を見ても、痴愚が治ったとか、頭がよくなったから奉納されたというものは皆無だといいます。〔これで思い出すのは、日本でもある部位をさすると、その部分の病気が治るという言い伝えのある仏像が時々見かけられますが、頭をなでて、頭がよくなるようにと祈っている人が結構多いようで、この辺りは文化の違いかどうかは分かりません。〕
 それから、さまざまな運の良さを列挙します。「難破船から泳ぎ出て無事だったものもいれば、敵の一撃を体に浴びながら生き残った者、戦闘のさなか仲間たちがまだ戦っているのに、勇敢だったからというよりは運がよかったために逃れ出たもの、絞首台に吊るされながら、盗賊を庇護してくださるどこやらの聖人様のおかげで首吊り縄が切れて助かり、金をしこたま貯めこんだ誰ぞを見つけては重荷になっていては気の毒だと、その懐を軽くしてやることに精進するものもいます。牢破りをして逃げだした男もいれば、熱病から治ってしまい、医者を怒らせた男もいますし、毒を飲ませたのに、腹を下したためにそれが出てしまい、そのおかげで治って死なずに済み、そのため、苦労して大金を費やしたのが無駄になったと、かみさんが浮かぬ顔をしている者もおります。馬車がひっくり返ったのに、馬も無傷のまま家に馳せて帰った者もいれば、家がつぶれたのに生きながらえた者、間男を働いて相手の亭主にとっつかまりながらも、するりと逃げおおせた男もいます。」(167ページ) 転変する運命を巧みに切り抜けていく人々の姿がまるで近世のピカレスク(悪漢)小説のように描き出されています。そして女神は、痴愚から逃れたことを感謝するものなど、この中には一人もいないと断言します。「無知であるということは、何やらとても楽しいことなので、人はほかのすべてのものを断たれてもいいが、痴愚女神の手からだけは逃れたくないと願うのです。」(107‐108ページ) 大変な自信ですね。

 このように(当時の)キリスト教会は迷信話があふれ、「すべてのキリスト教徒の一生は狂気の沙汰で満ちあふれておりますが、司祭連中は唯々諾々とそれを許し、かえって助長している始末です。それも、そこからの利得があることをちゃんと知っているからなのです。」(108ページ) 迷信深い信徒たちから収奪することだけを考えている僧侶たちの腐敗した現状を是認するような言説を述べ、このような中で、まじめに正しい生活を送りなさいなどと賢者が解いたりすれば、それはかえって幸福に水を差すようなものになるだろうといいます。〔もちろん、エラスムスは迷信を退け、教会と信徒とが正しいキリスト教に戻ることを願っているわけです。〕 さらに女神は生前から自分の葬儀についてあれこれ手配する人間を自分の仲間に数え入れています〔現代日本の「終活」が連想されますが、教会が社会生活の大部分を支配していた当時のヨーロッパと、現在の日本とでは葬儀のあり方が違っていることを考える必要があります。〕

〔42〕
 次に女神は自分自身は大した存在でもないのに、貴族の肩書や、赫々たる先祖を持っていることを自慢する連中をやり玉にあげます。〔ここでののしられている中に、当時のイングランドの国王の属していたチューダー家が含まれているという説もあります。〕 そして、うぬぼれのために自己満足に陥っている人々、自分の召使たちが優れた能力を持っているために、自分自身も優れていると思ってしまっている主人、未熟なのに自分が名人の域に達していると思っている芸能人などを自分の仲間だといいます。「才芸が拙ければ拙いほど得々として傲慢な態度に出て、自慢して、偉そうに見せようとします。それでもよくしたもので、割れ鍋に閉じ蓋、芸が拙ければ拙いほど人気を博するという具合になっているのです。」(111ページ) さらには「未熟であればあるほど自分自身も大いに心楽しく、人からもより多く褒め上げられる」(112ページ)ので、だれが努力して芸を磨こうとするものかと問いかけます。〔身近にも同じような現象があるかもしれないと思ったりします。〕

〔43〕
 個人個人と同様に、それぞれの国民やそれぞれの都市にも、それぞれのうぬぼれがあるように思うと女神は続けます。「たとえばイングランド人は風采が優れ、音楽に長け、洗練された食事を楽しんでいると主張し、スコットランド人は生まれのよさとか、お受けとの血のつながりとか、精緻な議論に長けていることを自慢し、フランス人は洗練された生き方こそわが民のものと唱え、パリの先生たちは、(ほかの地のものなどは問題にもならぬとして)神学の名声は一人パリにのみありと傲慢にも称し、イタリア人は古典学と雄弁は我が国の独壇場だと主張し、人間界にあって唯一野蛮ではないのは自分たちだと、民を挙げて自慢しています。幸福という点にかけてはローマの住民が断然一位を占めておりまして、今に至るもなお、古代ローマの甘い夢にひたっています。
 ヴェネツィア人は、高貴な血筋の出であることを思って、幸福な気持ちでいます。数々の学問の創始者であるギリシア人は、その昔の英雄たちの輝かしい名を挙げて、それを売り物にしています。トルコ人とまことに下等な野蛮人どもの群れも、そのすべてが自分たちの宗教がすぐれていると主張し、キリスト教徒を迷信に囚われた奴らとして、あざ笑っています。いっそう愉快なのはユダヤ人で、今日もなお引き続きメシアの到来を待ち続け、頑強にモーセにしがみついています。スペイン人は武勇の誉れにかけては誰にも譲ろうとはしませんし、ドイツ人は背の高さと、魔術を心得ていることを鼻にかけています。」(112‐113ページ) これらの描写の中にはエラスムス自身の観察も交えられているとのことですが、類型的な決めつけが含まれていることも否定できません。それでもどのあたりは思い当たる節があるが、どのあたりは賛同できないなどと検討していくのも面白いかもしれません。たとえば、イングランド人について、「音楽に長け」とあるのは、その当時のイングランドでは音楽が盛んであったことの反映でしょうが、その後、イングランドからは大した音楽家は出現しなくなります(ドイツから移住したヘンデルのような作曲家が気を吐くくらいです)。「洗練された食事を楽しんでいる」というのも意見の分かれるところでしょう。

〔44〕
 自分の心をくすぐるのがうぬぼれだが、同じことを他人に対してするとそれが追従になると女神は言います。追従は恥ずべきことだという人がいるが、けだものを例にとってみても、「犬ほど媚びへつらう動物がいるでしょうか? それでいながら、これほど忠実なものがいるでしょうか?」(114ページ)と自分の議論を補強します。そして追従は、世の中で重んじられている雄弁術の根幹部分を占めているのであって、極めて重要な存在だと結論します。

〔45〕
 他人から本当でないことを言われてそれを信じてしまう。つまり騙されることは幸福ではないという議論に対して、女神は次のように反論します。「本当のことよりも、見せかけにずっと容易にとらえられてしまうようにできているのが、人間の心というものなのです。」(116ページ) 女神はプラトンの有名な洞窟の譬えなど引用しながら、自分は幸福だと思い込むことによって幸福を得る愚者の境遇を賛美するのです。

 女神は当時の世相の中で目に付くことを次々に取り上げていくのですが、その語り口は奔放で、その背後に隠れているエラスムスの意図が巧みに隠されているようです。つまり、ここは本心とは逆のことを言っていると思われる個所があり、本心が出ていると思う個所もあります。できるだけ私は、これは本心だと思う、これはそうではない…と書いていくつもりですが、私の読み間違いというのもあるかもしれません。間違いを犯すのは一方で、私が未熟であるためですが、もう一方でエラスムスの仕掛けに引っ掛けられたということで、それはそれとして読者として名誉なことではないかと考えております。
 
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