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小川剛生『兼好法師』(11)

3月1日(木)朝のうち雨が残っていたが、その後は晴れ

第1章~第5章のあらまし
 『徒然草』の作者は俗名を卜部兼好といい、おそらく父親の代から金沢流北条氏に仕えて様々な用を弁じていた侍であったが、仕えてた金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられた延慶3年(1310)ころから京都に定住するようになり、ほぼ同時に出家したと考えられる。彼が出家したのは発心の為ではなく、当時の身分秩序を超えて権門に出入りし、市井の人々と交わる手段としてであった。彼は蔵人所、あるいは検非違使庁の侍品の職を務めるか、手伝う一方で、経済活動を行い、自分の所有地を後宇多院ゆかりの寺院に寄進することで歌壇デビューを果たした。また金沢流北条氏と清華家である堀川家の接近から、堀川家や、さらには御所にも遁世者として出入りするようになった。鎌倉幕府(金沢流北条氏)滅亡後は、高師直のような上級武士あるいは足利尊氏の護持僧であった三宝院賢俊のような高僧のために祐筆として働いていた。

6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」のこれまで紹介した部分のあらまし
 当時の歌壇では俊成・定家の流れをくむ御子左家の中の、伝統を重んじ型にはまった題詠を表現の柱とする二条為世らの二条派と、もっと自由な歌風を主張する京極為兼らの京極派が対立していた。〔二条派は大覚寺統と、京極派は持明院統と近い関係にあった。〕 兼好は二条為世に師事し、師に忠実な地下の門人として、頓阿・慶運・浄弁とともに四天王に数えられるほどの評価と扱いを受けた。そして入門してくる初心者たちに歌の手ほどきをしていたのである。
 「徒然草では醒めた、時にシニカルな批評さえよくする兼好であるが、歌道ではそのような素振りはなく、為世・為定への姿勢は恭順をきわめた。」(179ページ) 為定の権大納言昇進を喜ぶ歌を詠み、為定の嫡子為貫(ためつら)とも親しく贈答歌を交換している。
 とはいえ、彼が自分の詠み草を編纂した『兼好自撰家集』は当時の他の歌人の家集とは違い、歌を分類せず、その配列も随意という「破天荒」なものであった。「最低限の統一もとらず、明確な編纂の方針は何もないはずなのに、この家集を精読した人は、兼好の個性が一貫していることを感じ取り、排列上の変化の妙を述べることも事実である。これは徒然草の章段の排列とも重なるところである。」(185ページ)
 二条為定が当時の政治状況の中で苦境に陥っただけでなく、病気で失明に近い状態になったために、頓阿ら四天王の二条派の中での地位が相対的に高まっていた。

第6章「破天荒な家集、晩年の妄執」の続き
 二条為定が苦境に陥ったのは、将軍足利尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱の中での出処進退に失敗したからである。観応2年(南朝正平6年、1351)、関東に逃れて反旗を翻した直義を討伐するために、尊氏は南朝と講和し、その結果、それまで尊氏に擁立されていた崇光天皇は廃位されてしまう。これを南朝の年号をとって「正平の一統」という。しかしこれが一時しのぎの和睦であることは明らかであり、南朝は建武3年(南朝延元元年、1336)に後醍醐帝が足利方に降伏した際に復位することなく、幽閉されることになった例を記憶していたので、文和元年(南朝正平7年、1352)に、和議が敗れると、尊氏が京都を離れていたすきを狙って京都に突入し、光厳・光明・崇光の3上皇を連れ去って、河内の金剛寺に監禁した。しかし、この年の8月に足利尊氏らは北朝を再建、京都に残っていた崇光天皇の弟である弥仁親王を即位させた(後光厳天皇)。この経緯については様々な議論があるが長くなるので省く。この後、北朝の皇位は後光厳天皇の血統で継承され、これを「後北朝」と呼ぶ研究者もいる。しかし後光厳天皇の曽孫である称光天皇に後継ぎとなる皇子がいらっしゃらなかったために、崇光天皇の曽孫である御花園天皇が伏見宮家から入って即位された。
 さて、正平一統により、南朝が京都に戻ったのだが、北朝に仕えていた公家たちは懲罰的に官位を落とされたりした(その1人が二条良基であり、小川さんが二条良基の研究家であるのはすでに述べたとおりである)。その中で二条為定はもともと、大覚寺統よりであったために、元の官位を安堵された。火のないところに煙は立たないということで、『太平記』(巻三十)には吉野の朝廷に内通していたからだと書かれているほどである。そして文和元年の年始歌会では為定が歌題「松は千春を契る」を進めていた。これでは、北朝再建後、為定は謹慎せざるを得ず、為貫が若くして世を去ったのち、嗣子とした為遠はまだ頼りにならないので、四天王に頼らざるを得ないのである。

 さて、二条為定が苦境にあり、二条派の内部で地下門弟である四天王が頼りという状態にあるとき、二条、京極とは別の、御子左家のもう一つの流れである冷泉家の冷泉為秀(?-1372)が台頭してきた。この書物の「6‐1 御子左家系図と撰進した勅撰集』(171ページ)の図を見るとわかるが、定家の子・為家には(二条)為氏(為世の父、為定の曽祖父)、(京極)為教(為兼の父)のほか、阿仏尼との間に儲けた(冷泉)為相(1260‐1328)という子がいた。為相は父から譲られた播磨細川荘を兄・為氏に奪われたので、母とともに鎌倉に赴いて幕府に訴え、ようやく勝訴となる。この時、阿仏尼が書いた旅行記が『十六夜日記』である。これですっかり幕府びいきになった為相は東国の武士たちに和歌・連歌・蹴鞠などを教えて、特に鎌倉連歌の発展に貢献した。(有名な「二条河原の落書」に「京鎌倉をこきまぜて一座そろわぬえせ連歌」というくだりがあるが、京風と鎌倉風とでは連歌のスタイルが合わない⇒建武政権下の公武の不調和を暗示するものである。そのくらい、鎌倉でも連歌がはやったということらしい。)
 
 為秀は父とともに長く鎌倉を本拠とし、現地の武士たちに歌道を教えていた。その中には足利尊氏もいたようで、建武・暦応のころには一時尊氏の歌道師範となっていると、小川さんは述べている。河北騰『足利尊氏 人と作品』(風間書房、2005)は歌人としての尊氏を論じた本であるが、河北は尊氏の歌について「すこぶる平明で真摯であり、表現の洗練と歌境の優艶であることに驚かされる」(同書、145ページ)、「日本古来の伝統への教養が豊かに生きている事、用語や表現が相当よく洗練されている事」(同上)、「二条派風の歌風をよく体得した歌人」(河北、146ページ)と評価している。冷泉派の歌風は平明で清新といわれているので、尊氏の歌は全体としては二条派風だが、為秀の影響もみられるというところであろうか。
 そして為秀は『風雅集』では撰集の助力を命じられたという。171ページの「6‐1」図をご覧になるとわかるのだが、「二十一代集」の17番目である『風雅集』(貞和5、南朝正平4,1349)だけが、この図に出てこない。これは京極派のパトロンであり、ご自身が優れた歌人でいらっしゃった光厳院が御親撰されたからである。ただし、岩橋小弥太『花園天皇』(吉川弘文館:人物叢書、1962)によると和歌集の「仮名序」、「真名序」は花園院が執筆されたものであるという。なぜそうなったのかというと、京極家には為兼以後、その後継者となるような歌人が出なかったからである。そこで持明院統に比較的近く、歌風の点でも京極派に近い為秀が手伝うことになったということらしい。しかし、その後、為定も尊氏に接近するようになり、為秀は歌歴や簡易の点で見劣りがしたため、ついに歌壇の中心とはなれなかった。

 「しかし、為秀には黙々と歌道に精進する姿勢、また二条家の面々に伍する十分な歌才があり、それは良基からも「天性骨(こつ)の人にて、やさしくをだやかなるうたおほく侍るなり」(近来風躰)と認められた。」(190ページ) そのような為秀の和歌に共感を覚えて門弟となった一人が、今川了俊(貞世)である。また為秀は為家を祖父に持つことから、伝来が確かで豊富な蔵書を誇り、その点では二条家を凌駕していたらしい。

 後光厳天皇の治世、二条派では為定が逼塞し、京極派は為兼以後はこれといった指導者を書き、パトロンを兼ねる光厳上皇がかろうじてまとめていたが、それも上皇が南朝に連れ去られたことで終焉を迎え、京都歌壇は空白状態に陥っていた。そこでもともと持明院統に近かった為秀の声望が相対的に高まったようである。

 さらに冷泉家は門弟層拡大のため、家に伝わる秘本の公開にも積極的であった。為秀も、過去の経緯はともかく、頓阿・兼好ら二条家の地下門弟にも古今集の家説を授けた。特に兼好は冷泉家の説に大いに賛同していたようである。といっても、これは冷泉派の今川了俊の書いていることであるから割引して受け取る必要があり、彼らが為秀のもとにしげしげと出入りするようになったのは、為定が権威を保つことができなくなった文和年間(1352‐1355)のことではないかと小川さんは推測しているが、妥当な見解である。さらに、了俊がこれを執筆したのは応永17年(1410)で頓阿の権威が極めて高く、二条派が主流の地位を維持していたのに対し、冷泉家は挽回の機会を狙っていた時期であり、頓阿や兼好が社交儀礼として為秀に挨拶に出かけたのを、了俊が針小棒大的に取り上げている可能性もあると指摘している。この辺りさらに検討が必要な個所であろう。

 当時の歌壇の動きなどについて触れたため、まだ「晩年の妄執」がいかなるものであったのかという小川さんの議論、「妄執」というほどのことではないという私の意見はまだ展開するに至っていない。それよりも、勅撰和歌集に兼好の歌よりも、足利尊氏の歌のほうが多く入集しているという現実のほうをどう見るかというようなことも含めて、次回をもって、第6章を巡る議論を終えたいと思うが、果たしてどうなるだろうか。
 
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