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『太平記』(199)

2月27日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月(史実は12月)、足利尊氏・直義兄弟によって京都の花山院に幽閉されていた後醍醐帝は脱出して吉野に向かい、金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の報せが東宮恒良親王、一宮尊良親王を奉じて新田義貞が立てこもっている金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた越前の豪族瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、弟の義鑑房がひそかに預かっていた脇屋義助の子・義治を大将として挙兵した。高師泰は杣山に能登・加賀・越中の6千の兵を派遣したが、瓜生の奇襲により敗退した。11月29日、瓜生は足利一族で越前守護の斯波高経のこもっている新善光寺城を攻め落とした。明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、脇屋義治は里見伊賀守を金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、待ち構えていた高師泰・今川頼貞の軍勢に撃退され、大将の里見と瓜生保・義鑑房の兄弟は戦死した。

 敗軍の兵たちは杣山に帰りつき、負傷者、戦死者の数を調べてみると、里見伊賀守、瓜生兄弟、甥の七郎のほかに、討ち死にしたものが53人、負傷者が500余人であった。前回、金ヶ崎の後攻めに向かった兵の数は5千余人と記されていたが、本郷和人さんが『壬申の乱と関ケ原の戦い』で指摘しているように、この時代の兵数は1桁少なく見積もったほうがいいので、向かったのは1千人足らずと思われ、過半数が死傷したことになる。多くの将兵が近親を失い、嘆き悲しむ声でいっぱいであった

 ところが瓜生兄弟の母親である尼公はあえて悲しみの様子を見せなかった。そして大将である義治の前に出かけ、「この度敦賀に向かって攻め寄せたこの者どもが、ふがいなくも、里見殿を戦死させてしまいました。さぞふがいないとお思いでしょうと、ご心中お察し申し上げます。ただし、これを見ながら、保とその兄弟が、みな無事で帰ってきたということになれば、一層情けなさが募ったのでしょうが、保と、義鑑房、甥の七郎の3人は里見殿の最後のお供をして戦死し、残りの弟3人(源琳、重、照)は大将のために生き残ってまいりましたので、それが悲しみの中の喜びだと思っております。本来、大将である義治様を世に出し申すため、この攻撃を計画したのですから、自分の一族が千人・万人と一度に討たれても、嘆くべきことではありません」とさすがに涙を抑えかねてはいたが、自ら杓をとって義治に勧めたので、消沈していた杣山の将兵も、戦死者を嘆いていた人々も、みな憂いを忘れて勇気を奮い起したのであった。

 さて、この逸話ののち、『太平記』の作者は、義鑑房が討ち死にした時、弟3人が死なばともにと戻ろうとしていたのを強く押しとどめたのは、昔の中国で忠義のためにあえて生き延びた人の例を模範にしたからであるとして、『史記』「趙世家」に出てくる程嬰と杵臼の説話を長々と語っているが、語られているのは原話とはかなり違った内容だそうである。

 金ヶ崎城を包囲している足利方の軍を背後からついて包囲網を破ろうとする後攻めの計画が失敗したので、起死回生を願っていた籠城軍は頼みの綱が切れて、がっかりしてしまった。籠城が長引くにつれて兵糧が乏しくなってきたので、敦賀湾の魚を釣ったり、海藻をとったりして飢えをしのいでいた。短い期間であれば、それで済んだであろうが、攻城戦は長引いているし、いつ戦闘が始まるかもわからない、あまりにも兵糧に窮したので、大切に養っていた乗馬を毎日二頭ずつ刺し殺して、めいめいの朝夕の食事にあてた

 後攻めをするものがなければ、この城はもはや10日、20日と持ちこたえられないだろう。総大将のご兄弟(新田義貞、脇屋義助)がひそかにこの城を脱出されて、杣山に入城され、加勢する軍勢を招集されて、再度後攻めを行って包囲網を破ってほしいものです」と場内の者たちが口々に勧めたので、その意見に同意して、新田義貞、脇屋義助、北国まで随行してきた公家の洞院実世(後醍醐帝の近臣で、『園太暦』の記者である公賢の子)らが、土地の地理に詳しい河島維頼(これより)を案内者として、上下7人で2月5日の夜半、城をこっそりと抜け出し、杣山に落ち着いたのであった。

 杣山では瓜生兄弟の生き残りである源琳、重、照の兄弟と宇都宮泰藤がこれを迎えて大いに喜び、「再度金ヶ崎に向かって、前回の雪辱を果たし、金ヶ崎城内の瀕死の状態の味方の軍を蘇生させようと、さまざまに思案を巡らしたが、季節は春を迎え、暖かくなるとともに山の雪も消え、北国の武士たちはますます足利方に参集して、騎馬の兵だけで10万騎を超える様子である。義貞のもとにいるのはわずかに500余人、士気は衰えず盛んであるとはいえ、馬も武具も十分に調達できず、ああしようか、こうしようかと、悩みながら20日余りを過ごしているうちに、金ヶ崎ではもはや馬も食い尽くして、食事ができないということが10日ばかりになったので、軍勢は身動きもできなくなってしまった。

 北国で再起を図ろうとした義貞の軍勢は、越前の入り口の敦賀にくぎ付けにされて再起どころではない。包囲軍が戦功をあげようとしゃにむに攻め寄せてくるというのであれば、反撃の可能性もないことはないが、包囲が長引いている。足利方の武士たちは、大義名分よりも、優勢な方につくという機会主義的な動機に支配されているから、勝利が確実にならないと動こうとしないようである。その態度が、籠城軍をより苦しめることになるというのも皮肉である。北国を含め、諸国の情勢は足利方に有利で、宮方としては奥州で兵を集めている北畠顕家が頼りということになりそうである。
 
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