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ボオマルシェエ『フィガロの結婚』

2月26日(月)曇り、午後から晴れ

 2月16日、ボオマルシェエ『フィガロの結婚』(辰野隆訳、岩波文庫)を読み終える。18世紀の中ごろのスペインを舞台にした5幕からなる恋愛喜劇で、同じ作者の『セビリアの理髪師』(1775)、『罪ある母』(1792)と三部作をなす。『セビリアの理髪師』はパイジェッロ(1782)とロッシーニ(1816)によって、この『フィガロの結婚』(1784)はモーツァルト(1786)によって、さらに『罪ある母』はミヨー(1964)によってそれぞれ歌劇化されている。もっとも、モーツァルトの歌劇の台本はロレンツォ・ダ・ポンテの手になるもので、5幕からなる原作が4幕に改変されているし、役名についてもシュリュバンがケルビーノに変わっているなど原作のままというわけではない。

 アンダルシア地方に領地を持つアルマヴィヴァ伯爵は美しいロジイヌという女性に恋をしているが、彼女の後見人である医師のバルトロが厳重に監視をしていて、なかなか近づくことができない。それというのもバルトロが年甲斐もなくロジイヌに恋をしていて、彼女との結婚を望んでいるからである。そこに現れたのが何でも屋の理髪師フィガロで彼の策略が功を奏して、伯爵はロジイヌと結婚するというのが『セビリアの理髪師』のあらすじである。『フィガロの結婚』には、フィガロはもとより、アルマヴィヴァ伯爵、ロジイヌ⇒伯爵夫人、バルトロが引き続き登場する。

 伯爵の結婚の成功により、彼の用人=部屋付きの下僕・門番に取り立て(?)られたフィガロは、伯爵夫人の腰元=第一侍女であるシュザンヌと婚約するのだが、そろそろ倦怠期を迎え始めた好色な伯爵がシュザンヌに食指を伸ばし、彼の結婚を機にいったん廃棄した領主による<初夜の権>を復活させようなどと考え始める。しフィガロはシュザンヌと結婚するために、あらゆる知恵を絞って伯爵夫人や伯爵の第一小姓のシェリュバンを味方につけて伯爵に対抗し、伯爵のみだらな野心を打ち破って結婚に成功する。
 17世紀のルイXⅣ世時代に活躍したモリエールの恋愛喜劇では、恋する男女は召使の助けを借りてその思いを成就する。『セビリアの理髪師』もその延長線上にある恋愛喜劇ではあるが、辰野隆が指摘するように、召使の役柄であるフィガロが恋愛成就のための単なる道具以上の、個性的な人物として造形されているところに特色がある。さらに『フィガロの結婚』では召使の側の結婚が主題になっており、それを妨害しようとする好色な領主が腐敗した貴族の典型として描かれている。貴族の堕落・退廃を鋭く批判し、市民階級の知恵や活動性を強調するこの作品はフランス革命の前夜にふさわしい内容を持つものであったと評価される。ただ、貴族にとってかわろうとする市民階級に台頭という時代の流れの反映とは別の、この作品の特徴も見ておく必要があるだろう。

 フィガロが用いる作戦の一つが身代わりを使うというもので、まだ少年らしさが残るシェリュバンをシュザンヌの身代わりに仕立てようとする。もっともこの作戦は、伯爵夫人とシュザンヌが入れ替わるという形で女性陣に取り入れられ、フィガロ自身が騙されたりする。ともかく、身代わり作戦を可能にするのは女性の登場人物が多いことである。シュザンヌの従妹で館の庭師の娘のファンシェット、調度係で姥桜だが美貌を失わないマルスリイヌの2人を加えて4人のキレイどころが入れ代わり立ち代わり舞台に現れる。第5幕第3場の有名なフィガロの長台詞:「噫々、女! 女! 女! 弱ああい、あてにならねえ代物だなあ!・・・」(193ページ)はあくまでフィガロのセリフであって、伯爵夫人とシュザンヌがフィガロの作戦から独立して自分たちの作戦を立てるという筋立てになっていることからもわかるように、ボオマルシェエ自身は女性の強さや計算も認めていると思われるのである。
 さて、身代わりになるということは身代わりになる人物の服装に着替えをするということで、そのために下着姿になったりするというようなエロティックなほのめかしが多いのも特徴である。もう一つこの劇の特徴となっているのは、逃げたり隠れたりすることである。特にシェリュバンは伯爵の不興を買ってその目につかないように逃げ回る。大人と子どもの境界にいるシェリュバンはこの喜劇のカギを握り、ドタバタ劇を主導する存在でもある。(なお、モーツァルトの歌劇ではシェリュバン⇒ケルビーノは「ズボン役」で、メゾソプラノの音域をあてがわれており、女性の歌手が演じることになっている。)

 このように、お色気を前面に出したドタバタ劇というところにボオマルシェエの作劇術の特徴と限界を見ておく必要があるだろう。身代わり劇には倒錯の要素もあり、一時しのぎの猥雑さも付きまとっているということである。単純に市民階級の台頭という以前に、市民階級の中に潜み始めている退廃の影も認められるように思われる。
 「ものみな歌に終わる」という最後の台詞に示されるように、歌劇に作り直される以前からこの劇は歌あり踊りありの構成になっているのだが、モーツァルトの歌劇が有名になったためにその陰に隠れてしまったのは、モーツァルトの音楽のすばらしさのなせる業といってしまえばそれまでであるが、ボオマルシェエの原作の持つ猥雑さが時代の流れの中で飽きられてしまったということでもあるだろう。もしできたら、この原作と歌劇の台本の比較検討もしてみたかったのだが、それだけの余裕がないのが残念である。
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